小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

レオナール・フジタ展を覗く:

レオナール・フジタ展を覗く:

上田市立美術館での、ポーラ美術館(箱根・仙石原)所蔵コレクション中心の藤田嗣治展である。画家の生き方と絵画による表現・主張とは、生涯一致するものなのであろうか?展示会の題名に、藤田嗣治展という名称を用いずに、むしろ、カトリック洗名であるレオナール・フジタとしたのも、何か、この異邦人と評される画家としての生き方、考え方を著しているのであろうか?藤田やFUJITA  ではなくて、FOUJITAだそうである。同じ、上田にある戦没画学生慰霊美術館、無言館信濃デッサン館とは、おおいに、この私立美術館は、趣きを異にしている。それは、丁度、その画家の戦争時期での絵の違いと生き様の違いほどもあるのであろうか?個人的には、藤田嗣治の絵は、その作品に対する海外評価と戦争画が、強烈に主張するように、戦意高揚と戦争礼賛への戦後の一種、美術史上での戦犯扱いを一手に引き受けて、自ら、祖国を後にした生き方の狭間から、好きか嫌いかと云えば、どちらかと言えば、自分の中で、絵の評価も高くなかったのが、正直に言えば、実情であろうか?ポーラ美術館所蔵のコレクション中心であるから、むろん、「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」の絵は、写真でも展示されていない。むしろ、意図的に、この戦時中の作品は、除外されていることは、展示会のコンセプト上から致し方のない事と云えば、云えなくもない。一度、これらは、東京国立近代美術館で実物を鑑賞してみたいものである。それにしても、少なくとも、ドラクロアの構図法と巨大な画面の中で想像を駆使して描いた大作は、必ずしも戦意高揚だけではなく、その一輪の小さな花の描き方とか、非戦闘員を含めた描き方には、その児玉源太郎に係累する陸軍軍医の家系の故なのか、戦後、GHQによる追及と皮肉にも国際的な評価との狭間から、美術界の戦争責任を、一手に引き受けて、故国を後にして、戻らなかったことを思うと、画家の創作意欲というか、それを突き動かすものは、一体何であったのであろうか?大作の中に、描かれた戦争の悲惨さをさりげなく、花や悲惨な非戦闘員を含めた壮絶な光景を絵にしたものは、何だったのであるかを思うと、第一次・第二次大戦を同じパリで、経験した思いが、何処かに、潜んでいるようにも思えるし、初期のグレーなモノトーンの作風もよくよく眺めると、内面が複雑に織りなしているようにも思える。所謂「戦争画」を観た遺族と思われる人々が、絵に向かって手を合わせ、涙を流しているのを藤田が見た時に、絵も言われるな画家としての興奮と充実感を覚えたと述懐しているように、必ずしも、戦意高揚として観る側には、受け容れられたと云うことが作者の側にも理解出来たが故に、戦後、責任追及を一手に受けることにしたのかも知れない。

私は、全くの素人であるから、絵を描くという場合には、画風が、作風が、一向に、変わらない。もっとも、変わらないと云うよりも、絵画技術がないから、残念ながら、変えたいと思っても、変えられないのであろう。その点、フジタは、同時代を共に過ごしたピカソモディリアーニなどとの親好の影響からなのか、「乳白色の下地絵」に至るまでには、随分と、様々な画風が、試みられているのは、興味深い。写真家の土門拳による撮影から、アトリエ内での和光堂シッカロールの缶が、実は、乳白色の下地とおおきく関わっていることが分かったことは、同業者でなかったから故なのか、興味深い。この展示会の中で、いくつか、気になるところが、3つほどある。まずは、「旅」である。それは、フランスへの憧れからも想像されようが、時代時代に、中南米へ、極東へ、或いは、絵画の街頭進出を目指した昭和初期の壁画制作や街頭風俗とか、戦時下での戦場への旅、画家は、旅を通して、どのような画風を確立しようとしたのであろうか?そして、乳白色誕生と油彩画技法の確立、多くの裸婦像絵画、そして、1950年代末に洗礼を受ける以前にも、数々の宗教画を描いているが、これも、フランス滞在中での第一次世界大戦下での心理的な体験がそうさせたのであろうか?そして、よく分からなかったことと云えば、数多くの「小供」の絵である。それらは、お世辞にも、決して、可愛いと思えるモノではない。しかも、第二次大戦後に、主として、描かれている、「私だけの小供」、永遠の小供、実際のモデルを写生したモノではない、私ひとりだけの小供であると、何故、こんなにも無表情な、悲哀に満ちたような眼の子供なのであろうか?何故、アクティブな生き生きとした明日への希望に充ち満ちた顔の表情ではいけなかったのであろうか?おおいに、疑問である。最期に、画家の理想とするフランスの田舎の家の絵が、「理想の家」として、描かれているが、確かに、居心地の良さそうな心落ち着きそうな雰囲気である。画家が目指した究極の安寧の空間だったのであろうか?自分の中では、その画家の国際的な評価とは別にして、どちらかと言えば、複雑な評価であったが、この展示会をきっかけにして、もう少しばかり、日本画家、藤田嗣治ではなくて、画家、レオナール・フジタの軌跡をもっと、知りたくなりました。手仕事としての裁縫も陶器・木工、大工仕事も絵付けも身の回りのものは、既製品はすべて、商品であり、「芸術家たる者は、芸術品を身に纏うべし」という信念を終生持ち続け、自分好みの手作りの芸術作品へと昇華させてしまったことも、日常生活中には、出来ないことであるし、そうあるべきかとも、この大量消費時代には、考えさせられる。

「自分の身体は、日本で成長し、自分の絵は、フランスで成長し、今やふたつを故郷に持つ国際人になり、フランスに、どこまでも、日本人として完成すべく努力したい、そして、自分は、世界に、日本人として生きたいと願ったし、又、世界人として、日本人に生きることを願ってやまなかった」その画家は、遺言通り、シャンパーニュ地方、ランスの地で、ロマネスク建築の要素が至る所に取り入れられた平和の聖母マリア礼拝堂と謂う名前の最期の作品の中、自ら初めて挑んだフレスコ画の壁画やレリーフ、ステンドグラスと共に、眠りについている。死にいたる最期まで、芸術家は、その志しを貫徹したのであろう。しかも、「(礼拝堂の壁画を製作するための)足場の上で、私は、自分の80年の罪を贖うよ」とまるで、戦争犠牲者に対する贖罪とと自らの80年に及ぶ人生を処刑台の磔台に喩えたかのように、建築家に語ったと、、、、、、、。