小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

命の不等価性:

命の不等価性:

新聞の「論壇時評」に寄稿した高橋源一郎と「明日を探る」に寄稿した中東研究者の千葉大学酒井啓子教授のコメントが、なかなか、興味深い。「命の値段が異なる理不尽さ」、「命の不等価性」が、今日、これ程、問われているときは、ないのではなかろうか?それとも、我々は、それを十分知っていても、どうすることもできないのであろうか?それとも、日本人の命だけを、或いは、外国人だけの命を守ることを優先させて、紛争地のまさにそこに住んでいる中近東の現地の人を命を守ることを忘れても良いとでも言うのであろうか?或いは、湯川氏の死を軽率な自己責任論と切り捨て、後藤氏の死を、逆に、志の高い無念の死に様と果断するのが妥当なのであろうか?白人の警官による窒息死は、正当な職務であり、又、パリの風刺画によるテロは、表現の自由に対する挑戦であり、不公正に対する怒りへの理解が、ないがしろにされて良いのか?ISという怪物を創り出したのは、果たして、何処の誰だったのか?イスラム教徒の暴力は、すべて、テロ扱いされ、十字軍による暴力は、正当視されるというものでも決してない。増加するISに参加する若者を阻止しようとする反面、基督教徒民兵組織へ参加する西洋諸国の若者も増加していると謂われている。一体全体、いつから、そんな都合の良いご都合主義の世界標準的な基準に、いつのまにか、陥ってしまったのであろうか?ブレジネフによるアフガン侵攻に遡れば、起因するのであろうか?それとも、9.11以降の「テロとの闘い」という新たな戦争戦略が編み出されて以降なのか?考えてみれば、過去にも、人質殺害事件というものが、幾度となく、現存するが、今日ほど、日本人が、ISの宣伝戦術に影響されて、マスコミを含めて沸騰したことはなかろう。テレビや雑誌に、名を連ねた中東研究者で、これまで、イスラム世界をどれ程の人が、日本に、その宗教や文化や歴史を紹介してきたのであろうか?どれ程の理解があったのであろうか?個人的には、子供の時に映画で観た「アラビアのローレンス」の歴史知識と大学時代に、必須科目で受講した「イスラム・中近東近代史」程度であったであろうか?それも、みんな西欧というフィルターがかかった、一種、「被透過」情報だったのかも知れないと、今にして、思わざるを得ない。ISに関して、「反知性主義」という考え方がある。明らかに、ISのメディア戦術は、充分な知識と知性を有した一部の人間が建てている巧妙な素朴な「祖国愛」や「民族主義」は、まだしも、何故、そこから、レイシズムや、排外主義、民族浄化、差別と偏見などが、一種媒介項として、転移してゆくのであろうか?思えば、暗黒の中世でも、絶対的な宗教的権威に名を借りた勢力によるいわれなき「魔女狩り」も、日常茶飯事に、行われたことも忘れてはならないであろう。異質な文化や多様性に富む考え方を「学ぶ」ことの重要性を忘れ去り、ひたすら、ファナティックな動きに、身を任せてしまうこと、或いは、毎日の溢れるマスメディアの洪水に身をさらされながら、暮らしてゆくことは、一度、立ち止まって、考え直してみなければならないと、両人のコメントを読んでいて、感じられる。