小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

映画、「悼む人」を観る:

映画、「悼む人」を観る:

歳とともに、眼が衰えてくると、昔のように、原作である本を読んでから、映画を、再び、愉しむということも、今や、億劫になり、順序が、逆になってしまった。文章言葉での表現と、映像によるビジュアルな表現とでは、そこには、何らかの違いがあるわけで、それが、どのように、又、監督や脚本家や役者によって、解釈されて、表現されるのかを愉しむのも、一理あろうか?原作、直木賞受賞作である天童荒太によるもので、死者を「悼む」ということは、一体、どういうことなのであろうか?その意思に反して、死んでゆくことは、病死であれ、不慮の事故死であれ、云われなき理不尽な不条理な殺され方でも、何であれ、どんな形の死でも、どのように、「悼み」、「悼まれる」のであろうか?その理由も、何故、死んだのか、或いは、殺されたのかは、関係無く、死者の生きた証、如何に愛されたかが、誰かを愛し、誰かに、愛されたのか、を問うものである。等しく、そこには、「悪人尚もて、往生す」ではないが、やや、精神を病んだ主人公の青年が、全国を放浪しながら、「死者との対話」を通じて、或いは、その放浪旅行の中で、再び、自分自身を見つめ直してゆく過程を描いているのだろうか?最終的には、自身の母が、癌に冒されて、亡くなることと、(貫地谷しほり演じる)妹が恋人との間に出来た赤ん坊をシングルマザーとして、産むという決断をすることで、新たな命と引き替えに、ひとつの命が、終わってゆく様を象徴的に、描いているのか?その旅行の過程で、夫が、自ら自殺できないが故に、その妻を使って、刺殺してしまう石田ゆり子が演じる女の存在は、主人公の神聖さから、一挙に、イメージが、覆ってしまうようで、原作に、そういう表現がされているのであろうか?果たして、原作を読んでいないので、良く理解出来ないのも事実である。主人公の青年は、死者との対話の中で、むしろ、自分自身との内省的な対話をするという形に、変容してゆき、結局、この石田が演じる女との関係性の中で、自分を取り戻し、今まさに、死の床にある(大竹しのぶ演じる)母の待つ家に帰ることを決意する訳である。8月6日の原爆投下の当日、今治で、空襲により亡くなった兄を忘れられずに、コミュニケーション能力に、支障をきたしてしまった父の役を演じた平田満も、なかなか、良い演技であろう。女医役の戸田恵子も、面白い、又、一寸、危ない、雑誌記者を演じた椎名桔平も、アウトレージでみせた顔とは又、別の顔で、その母や、父との関係性を、上手に、想像させていて、宜しいではないか?それにしても、石田ゆり子は、それ程までに、濡れ場を演じなければならなかったのか、堤幸彦監督(映画、明日の記憶など)に尋ねてみなければよく、分からない。高良健吾という俳優は、若い乍ら、数少ない動的でない演技が出来る役者であることが、これからも、理解されよう。様々な愛の形としての命というものが、ここには、ちりばめられている。「愛する人を殺した女」、「母を棄てた父を憎む男」、「愛が歪んだ形となってしまった男」、「新しい愛の結晶としての命を拒否された女」、「静かに、死の床で息子を見守る母」、「どんなことをして、人々に感謝されてきたのか?」、「どんな風に、愛され、又、愛してきたのか?」、この映画を観ていると、普通であること、当たり前なことの方が、何か、異常な事ではないかとも、考えさせられてしまう。人間が関係する祥月命日は、随分とあるものであるが、その故人を「悼む」方法も、よくよく、考えなければならないかも知れない。なかなか、重い映画である。逆に、原作を読んでみることにするか?それにしても、毎日、毎日、事故死やリンチ殺人や虐めによる死亡とか、これでもかこれでもかと、全く、考えさせられる。