小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

映画、「緋牡丹博徒」と「死んで貰います」に思う:

映画、「緋牡丹博徒」と「死んで貰います」に思う:

「単騎、千里を走る」の健さんは、もう、若い頃の怒りに満ちあふれたぎらぎらした目つきではなかったが、この任侠路線華々しい頃の作品では、ありったけ、「危ない目つき」である。これに対して、緋牡丹お竜こと、藤純子は、この頃、これ程、キリッとした線の細いながら、鋼のようなしなやかさを有した凜々しい役柄を演じていて、実に、面白い。「死んで貰います」では、一転して、芸者役で、出演していて、そのギャップと云ったら、これも又、奥ゆかしくて、一途な秘めた心を有した女らしいのが、実に宜しいではないか?我々の世代は、既に、池辺良の若い頃の文芸作品や好青年役ものは、残念乍ら、時代が違ったから、観たことはない。映画というものは、所詮、同時代性というものが、結構、前提に、評価し合うものなのかも知れない。言い換えれば、時代を遡ったり、下ったりして、観ても、なかなか、その映画が出来た頃の「時代性」を理解出来ないものかも知れない。啖呵を切る場面での監督の撮影手法も、今や、芸術的な価値があるように、同じリメイクで、同じ手法で、仮に、今、作られたとしても、「同時代性」は、もはや、感じられることはないであろう。俳優というものも、その映画のその瞬間、瞬間で、輝いていて、その輝きは、その目つき、その仕草、その演技、どれひとつをとっても、「その時の一回性」なのかも知れない。そこに、観られるのは、いつも、永遠に変わらぬ俳優が、存在するだけで、その時の、自分は、決して、その中に存在しているわけではない。せいぜいが、その時に観た当時の「過去の自分の存在」であって、同時性の中で、残念乍ら、その存在を感じられる訳ではない。改めて、自分の顔を鏡で見ると、そこには、目の垂れてしまった、今の自分しかなく、相手の俳優は、永遠に、眼光鋭く、凜々しく、鋼のようにしなやかな立ち居振る舞いする姿が、銀幕の向こうに対峙しているわけである。俳優というものは、永遠に、その中で、輝いているかも知れないが、観るこちら側は、残念乍ら、一人だけ、時間の経過をいやという程、教えられることになるのかも知れない。だからこそ、俳優は、死しても尚、銀幕の彼方で、永遠の命を保ち続けて、燦然と輝き続けるのかもしれない。確かに、藤純子は、改名しようが、結婚しようが、歳をとろうが、緋牡丹お竜で、高倉健も、池辺良も、変わらないのかも知れない。そんな感慨を持ちながら、映画を観てしまった。それにしても、今云われるところの大御所達が、端役で出演しているのを観るのも、実に、面白いことである。又、10年後に、見た時には、どんな感慨を抱くであろうか?1960年代後半も、1970年代初めも、その時には、随分と、遠い昔の映画になっていることであろう。それにしても、藤純子の引退後に、そのイメージを継承させようとして、せいぜいが、梶芽衣子くらいしか、世に送り出せなかったことは、余りにも有名なことである。そして、又、高倉健も池辺良も、そういうことなのかも知れない。更には、当時の女優陣は、佐久間良子三田佳子も、生まれた時代が、悪かったのであろうか?