小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

閻連科(イエンリエンコー)の云う「国家が仕掛ける記憶喪失症」なるものとは?:

閻連科(イエンリエンコー)の云う「国家が仕掛ける記憶喪失症」なるものとは?:

中国文学作家に、接することは、せいぜいが、現代でも、「魯迅」止まりであり、中国が抱える現代的な課題に対しては、最近の拝金主義・官僚腐敗汚職・民族主義の弾圧・自然破壊・金権体質、など、数え上げれば、数知れないが、それらを真剣に、現代文学作品の中で、読む機会は、ほとんど、ないのは、残念な限りである。新聞のコラムの中に、閻連科(イエンリエンコー)という1958年生まれの解放軍の出身で、現在、反体制作家として当局の監視下にある魯迅文学賞カフカ賞受賞作家のコメントが出ていたが、なかなか、興味深いものがある。国内に止まり、とりわけ、文筆でもって、暗黒政治社会に対して、孤高の灯台の灯を守りながら、どれ程の知識人が、中国国内には、いるのであろうか?そして、一体、このような状況下で、文学というものに、或いは、広く、ペンに、言論に、何が出来うるのであろうか?拝金主義が蔓延して、社会を歪めていると分かっていても、マネーという物差しを棄てることが出来ない、更には、枯れた花までも、再び、咲かせてしまうほど、汚れた空すらも、又、綺麗な澄み切った空を蘇らせてしまう国家権力という現実の絶大な力と、どのように、対峙できるのであろうか?そして、天安門事件を「国家が仕掛ける記憶喪失症」と評する彼にとっては、暗黒に順応してしまわないように、社会の闇を照らす懐中電灯のような文学作品を、如何に世に出せるのかという課題は、極めて、大きなものがあろう。それは、中国だけの問題ではなく、日本でも、戦後70周年の記憶の喪失、或いは、これを歪曲して、政治的に利用しようとする旧戦勝国側にしても、同様であろう。彼の手法とする「非リアリズムによるリアル化」とは、どういうことなのか?確かに、言論弾圧の中では、それこそ、別の意味でも、言論の自由や、表現の自由が制限されている最中では、直接的なルポルタージュ的なリアリズムやドキュメンタリーは、余りに、無垢で、文学的ではなく、攻撃と弾圧の対象になりやすい。しかしながら、それを風刺を効かして、いかにも歴史小説風に、或いは、架空の設定の中で、オブラートに包み込んで論じることは、逆に、リアリズムを、一層、進化させるような手法であるといえようか?そこには、巧妙に仕組まれた「無限の創造力」をだからこそ掻き立てるような、そして、事実を一層事実よりもリアルに考えさせられるような工夫が、凝らされていて、言論弾圧との闘争の過程で、その文学が、ぎらぎらと、光輝くようになると評されている。一体、これから、彼の描こうとする課題は、どのようなものになるのであろうか?そして、それは、単に、中国という国だけではなくして、普遍的に、もっと、広い全世界的な課題でもあるのかも知れない。言論と表現の自由や、風刺の自由が逆に、宗教の侮辱とも取られかねない現状、そして、貧困と差別・移民、民族排外主義、異なる文明・宗教同士の衝突など、今日的世界的な課題は、ますます、苛烈に、我々を待ったなしに、襲ってくる。それでも、こんな政治的な厳しい日中間の政治関係の中でも、民間での交流・観光での密接な関係による別次元での交流を評して、中国人は、だんだん、成熟していて、民族主義も、ゆっくりとではあるが、好転していると、飽くまでも、ポジティブである。(村上春樹が評した、「尖閣の狭小なナショナリズムを安酒に酔いしれている状態」に対して)成る程、中国人は、政府を疑っているし、信用していなくて、むしろ、軽蔑しているのかも知れないが、、、、、。その意味で、中国ネトウの動向も、それ程、額面通りには、受け止める必要性はないのかも知れない。むしろ、複雑な現実を真摯に受け止め、単純明快な二分化をむしろ、疑った方が良いのかも知れない。その意味で、不条理なことが日常生じている中国の現状こそ、文学が取り上げる課題が、色々と詰まっている玉手箱なのであるのかもしれない。その意味で、今後、新作「炸裂志」も含めて、どんな作品が発表されるのか、期待したいところである。我々は、中国であれ、日本であれ、アメリカであれ、ロシアであれ、国家というものが画策する、「記憶喪失症」に、しっかりとした対抗軸を、自分自身の中で、持っていなければならないであろう。それは、又、普遍的に、一国だけではなくて、国境を超えて、個々人の心の中に、根付かなければならないであろう。いつの日にか、天安門事件を主題にした文学作品を読んでみたいものである。