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小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

カバー曲を歌うと云うこと:

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カバー曲を歌うと云うこと:

徳永英明が、これまで、歌ったカバー曲の中から、リスナーがHPで投票したベストテンをSONGSの中で、歌うというものだそうである。シンガー・ソング・ライターである徳永にとって、カバー曲を、とりわけ、女性シンガーのヒット曲を歌うと云うことは何を意味するものなのであろうか?又、これをひとつの契機として、一旦、打ち止めにするという本当の意図は、何処になるのであろうか?番組の中では、本人の口からは、聞かれなかったのは、時間の関係もあったのであろうが、少々残念なことであろう。彼の声は、一寸、ハスキーで、高い音程の裏返った苦しそうに出すところが、女性シンガーのヒット曲には、ひょっとしたら当てはまっているからなのであろうか?中島美嘉によるところの「雪の華」は、ベスト1にランキングされていたところをみても、そうなのであろうか?或いは、音程の高い、一青窈の「ハナミズキ」も、同じような特徴を持っているのであろうか?それにしても、ヒット曲というものは、その歌手が歌った世界観とイメージが、当然、くっついてくるから、それをまずは、粉々に分解して、次に、独自の自分なりの世界観でもって、再構築して、自分独自の世界に、歌い変えてしまう作業は、並大抵の努力では出来ないはずである。従って、音程や音域が似ているだけでは、単なるコピーであって、まぁ、それは又それで、なかなか、難しいことであるには違いないのであるが、それを差し引いても、世界観のリストラクチャーは、まるで、スクラップ&ビルドのようなものなのであろうか?それとも、原曲を程々に生かしながら、つまり、6割方は残しながら、残りの4割を再構築するものなのであろうか?カバー曲を歌うと云うことは、本来、難しい作業であることが、想像されるが、確かに、素人が、カラオケ・ルームで、歌うのとは、本来訳が違うものであろう。それで、お金を稼ぐということになれば、そう容易いことではなかろう。確かに、音質の異なる、竹内マリアの「駅」などは、中森明菜のカバー曲の方が、個人的には、徳永英明よりもずっと、中森明菜の世界観が、独自に、確立されているように感じられてならない。さすれば、カバー曲というものも、単に、ヒットした曲の力を借りるというよりもむしろ、プラスの力よりも、マイナスの要素を超える独自の付加価値を加えないと新たな世界観、独自の歌の世界は、再構築されないのではないだろうか?その意味では、シンガー・ソング・ライターである自分の特性、世界観とは、カバー曲を歌うということとは、若干、その地平が異なるモノではないかと感じられるし、本人も、そうではないかと、うすうす、気づき始めていたであろうし、イージーに、歌い続けることで、平均点以上は、稼げるのであろうが、アーティストしては、決して潔しとしないのではないかとも、考え始めたのではないだろうか?素人考えであるから、分からぬが、カバー曲でも、自分と音程や音域が異なる歌手のカバー曲への挑戦も、又、多いに、リスクがあるのかも知れないが、如何なものだろうか?SONGSのカバー曲ベスト10を聴きながら、そんなことを感じたが、、、、、、。