小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

The Reason I jump を読んでみる:

The Reason I jump を読んでみる:

幸か不幸かは、分からぬが、自分の家族や親族の中で、所謂、強度の「自閉症」を患ったものはいないが、何でも、アマゾンで、強度の自閉症を患うNaoki Higashide著による日本語の本を、同じ、自閉症の子供を持つDavid Mitchellが、英語に飜訳した結果、自閉症児を有する親だけでなく、各国の関係者に、大きな反響を与えた書物らしい。そこで、英語に飜訳されたものを、読んでみることにした。それ程、分厚い本ではないので、是非、日本語でも宜しいし、英語でも、一読することをお薦めしたい。従って、ここでは、その内容よりも、むしろ、私が、感じたところのこの本からの印象を中心にして、述べてみたいと思います。

歳とともに、肉体的な機能が衰えてくると、私の場合には、脊柱管狭窄症という腰の障害から、歩行が思うようにゆかず、その後、目が見えづらくなり、初期白内障の様相を呈し始め、読書が、はかばかしくなってしまったこと。こうなると、白内障の進行を遅らせる眼薬を点眼しても、なかなか、集中力が持続されなくなり、自ずと、読書量も、落ちてくるものである。若い人向けに、年寄りの行動が、如何に遅いのかを、アイ・マスクやプロテクターをつけて、人工的に、行動を制御することで、理解しようという体験運動が、行われているのをみたことがあるが、肉体的な「障害」を持つようになって始めて、人間というものは、「異常・アブノーマル」というモノを実感するのであろうか?それでは、精神的な障害を有して、この世に生を受けてしまった人々を我々は、如何にして、理解しようとし、許容しようとするのであろうか? それとも、拒絶と非寛容、或いは、差別・隔離という形でしか、対抗できないのであろうか?ある種、根本的に、脳に、障害がある場合には、薬などによる障害の軽減も考えられようが、それでも尚、自閉種の症状との付き合い方は、なかなか、難しいこと、とりわけ、親ですら、関係する、接する側の問題が、いかに大きいかが本書の指摘からも、理解される。まるで、それは、未知との遭遇のようなものなのかも知れない。小さい時から、大人も含めた、社会の側、接する側の病気に対する理解と啓発が必要であることは言を俟たないようである。

本書の中で、指摘される課題は、成る程、すべてに亘って、自閉症を抱える側に問題があるのではなくて、むしろ、ひとつひとつが、接する我々の側に、問いかけているようである。文章を書くという意味、同じ事を何度も尋ねること、鸚鵡返しに、質問者に対して、尋ねること、何度注意されても、同じ事を繰り返すこと、奇妙なしゃべり方をすること、年齢を問うこと、会話をするという難しさ、コミュニケーションとは?人を見つめて喋らないこと、手を握らないこと、無視すること、顔の表情が乏しいこと、記憶するメカニズムとは?、ミスをしでかすこと、何故、できないのか?させようとすると、嫌がるのか?ノーマルとは、一体何を意味するものなのか?何故、ジャンプするのか?空中で、字を何故書くのか?騒音とは?手足をバタバタさせること、sensitiveであるとは?食べることにうるさいこと、服装に無頓着であること、蝉ぼ譬えと時間の経過という概念について、睡眠、寝るという行為、きちんと、並べること、CMの繰り返し、ダンスを踊り続けること、何かをし続けること、学ぶことを学ぶという気持、成長したいという願望、徒競走をしない理由、自由な時間とは?したいこととは?感動にむせび泣くこと、彷徨する理由とは、道に対する概念、同じ動作の繰り返し、静かにすることの難しさ、パニックに陥るとは、子供っぽい行動とは、泣き叫ぶこと、傍で見守ることの意味、人間性とは、等…、どれをとっても、接する側にとっては、その関係性の中で、おおいに、反省させられるものが含まれている。強迫観念は、どこから来て、どのように、普通は、解消されるのであろうか?アブノーマルとノーマルと称される境界線とは、何なのか?黙ってやさしく、見守ること、その関係性を如何にしたら、うまく構築できるのであろうか?一人でダンスを踊り続ける少女に、やさしく、手を差し伸べて、「私と踊りませんか?」といった途端に、その少女は、踊りを止めたということは、何を意味するのか?この本は、一種の英語の翻訳書というものではなくて、実は、接する者、他者と称する者に対する一種の手話通訳のようなものか、本来、成り立つはずのないコミュニケーションを回復するツールのようなものではないだろうか?それは、ノーマルと考えられがちな我々の側におおいに、反省と再考を促しているようなものなのかも知れない。とりわけ、コミュニケーション・ツールが、今日、何なのかも、分かりづらいものになりつつある以上、愛犬とはうまく、コミュニケーションが出来るのに、自閉症患者やある種の人間とは、うまく行かないという極端な例までもみられるような世の中で、我々は、我々自身を、どのように、見直したら良いというのであろうか?そういう根本的なコミュニケーション論、言語論の範疇にまで、拡げて考え直さなければ、本来の本書の意味は、単なる狭い意味での自閉症患者との接し方の一助や、理解になるというハウ・ツーものという位置にしか、なれないかも知れません。それでも、自閉症に対する理解が進めば宜しいのかも知れませんが、依然として、アブノーマルをアブノーマルとしか考えられない人間との関係性においては、一向に、改善がみられないように思えてならない。もう、肉体的に、脊柱管狭窄症のために、ジャンプですら、出来なくなりつつ私には、改めて、ノーマルとは何か、当たり前とは何か、普通にやれるとは何かを、改めて、考え直させられる良いきっかけになりました。キーボードでも何でも良いから、少しでも、コミュニケーションが可能になるのであれば、そういうトライをもっと、試してみるべきでしょうね。眼に見えない格差や差別も、問題ではありますが、明らかに、同一でないことを隠すことの出来ない人と、どのように、接するかは、おおいに、議論すべき事であろうし、又、多様性とか、異質なものへの理解という社会の雰囲気は、何らかの形で、社会制度システムの中でも、眼に見える形でも、見えない形でも、必要であることが再認識されましょう。