小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

シンガーソング・アクトレス、中森明菜を観る:

シンガーソング・アクトレス、中森明菜を観る:

シンガーソング・ライターというものは、良く知れ渡っているが、アクトレスという範疇とは、唄を、歌手でありながらも、歌うだけではなくて、衣装も歌うステージの場面もビジュアルも含めて、総合的に、あたかも、女優が役を演じるように、ステージで歌うことを目指そうとする歌手をどうやら、そう呼ぶそうである。大晦日の紅白に、あたかも、病み上がり後のようなか細い声で、NYから、レコーディングのスタジオから、新たな歌声を中森明菜は、聴かせてくれたが、長い間、心と体のバランスを明らかに崩していた影響が、如何にも、その顔つきに、色濃く刻印されているようで、若い20代の頃のジャケットの写真と比べると、誠に、隔世の感がある。自身に満ちていたあの頃と心と体のバランスを長い間、崩した後の時間の経過は、流石に、この歌手にも、例外なく、呵責にも、襲いかかっているようである。それでも、唄というものは、何らかの復活の可能性をおおいに、残していることが、この歌手から感じられたのは、若干の救いである。カバー曲からのリハビリを始めていったためであろうか、他人の唄を自分流に、自分の世界で、歌うことで、自分自身を歌手というものは、取り戻すものなのであろうか?いずれにせよ、復活のきっかけと心技体のバランスを仕事の中で、取り戻すことは容易なことではない。画家に、画風があるように、同じように、歌手にも、似たところがあるのであろうか?個人的には、初期作品の来生たかおによる「スローモーション」、「セカンド・ラブ」、「トワイライト」、竹内まりあの「駅」等の、如何にも、ガラス細工のようなか弱い女を支えて上げたいとおもわせるようなそんな思いを聴き手に与えるようなイメージが、好きである。残念乍ら、初期作品の頃には、ビジュアルで、唄を聞いていたわけではなくて、カセット・テープで聴いていた頃であるから、アクトレスという本来の彼女の目指したような世界を、実感したわけではないが、再び、今度、聴くときには、このコンセプトを再確認しながら、楽曲を楽しみたいものである。仕事を再開すれば、再び、心と体のバランスを失う可能性もないとは限らず、慎重に、この問題を解決させながら、再び、活躍を期待したいものである。