小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

風刺と表現の自由:

風刺と表現の自由

フランスの新聞社の襲撃事件の一報を聴いた途端に、昔の朝日新聞社に対する赤報隊を名乗る言論へのテロを想い起こす。もういつの頃であったかも、定かではないが、迷宮入りしているで、どこかで、犯人は、息を潜めて、潜伏していることだけは、間違いないであろう。表現の自由というものも、全く、命懸けでることが、これからも分かろうか?ペンは剣よりも強しとは、即ち、どれ程の人を味方につけられるかでもあろうか?カリカチュアーという代物は、そもそもが、根源的に、どこかで、本質を抉り取るようなところがあるのかもし得ない。宗教も政治も、本質的には、その風刺の対象から、逃れることが出来ないというのが、本来の自由な社会なのかも知れないが、残念乍ら、そんな世の中は、世界中捜しても、何処にもないことが、改めて、再認識される。香港にも中国にも、民主的な言論はないし、アメリカですら、いきなり、白人というだけで、いきなり、警官が銃撃されてしまう世の中である。ましてや、一部のイスラム原理主義者達は、不条理な教義を更に、一方的に、偏向して解釈したうえに、暴力と恐怖で、教育の機会均等ですら、奪おうとしているのが現実である。考えてみれば、江戸時代の落語などや、落首なども、別の見方をすれば、庶民感情を代弁してくれていた一種の体制に対する風刺であったのかも知れない。それにしても、殺害された側には、それなりの言論・表現の自由に対する命懸けの覚悟があったのであろうか?ボディーガードまで、殺害されているところをみれば、それなりの覚悟と対応策を採っていたのであろうか。それにしても、こういう事件をきっかけにして、又ぞろ、極右からの平和的な一般イスラム教徒への云われなき差別や不当な・偏見と弾圧が行われることを危惧するし、又、それを助長するような風潮が、際限なく、融和の方向ではなく、得体の知れない疑心暗鬼と対立・抗争という構図の中で進展することを怖れるのは、私、一人だけではあるまい。残念乍ら、ガンジーのようなかつての対立を昇華できるような「高邁な理想と哲学」、或いは、それを具現化できるような「知の巨人」が、世界の何処を見渡しても、見当たらないことは、とても、不幸なことである。民族排外主義に対峙できるだけの、或いは、宗教間対立を止揚できるような何か、新しい哲学が、出てこないのであろうか?誠に、考えさせられる事件である。一体、社会の中にある二重・三重構造の社会的な差別や貧困、或いは、宗教的な対立、社会的な、心理的な「疎外」を、「共生」、とか、「多様性」と言う言葉だけで、どのように、昇華できるのであろうか?何処かの国の野党の代表選挙で、叫ばれた理念が、残念乍ら、無惨にも、冷や水を浴びせられたような気がしてならない。ユーモアとペーソス、ブラック・ジョークやカリカチュアーという言葉が、昔、あったけねぇとは、謂わせたくないものである。