小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

山口マオ、絵本朗読会と版画教室:

山口マオ、絵本朗読会と版画教室:

すっかり退化してしまった右脳の再生活動の一環である。それにしても、まだ、孫がいないから、絵本を読み聞かせる恰好の相手が見つからないのが、ちと、寂しい思いがする。絵本というのは、やはり、声を出して、読みきかせるのが、一番であるようである。それは、黙読するために、存在するモノではない。声を出して、誰かに、読み聞かせて初めて、絵本に生命という息吹を吹き込まれるのかも知れない。だから、それは、一方通行ではなくて、双方向、或いは、多方向性のコミュニケーション作業でもあろう。読み手と聴き手役との間での何かしらの声を通じて、声を出して読むという行為を通じて、初めて、繋がるコミュニケーションであろう。読み聴かせられる側も、読む側も、互いに、絵本の絵を観ながら、その文字を追うのではなくて、読まれる声で、とりわけ、その抑揚や、イントネーションや、スットン狂な声でも、ある種の感動や驚きが、生まれるのである。同じ文章を、同じ絵本を読み聞かせても、その読み方ひとつで、全く、異なる感動が生まれるものである。今回は、おまけに、作者の小風さんの朗読と絵を描いた山口さんによって琵琶を奏でることで、一層、趣きが異なり、これは、なかなか、朗読というか、琵琶の弾き語りと云おうか、このコラボは、趣きがあったと思う。子供ならずとも、大人もおおいに、愉しめるものであることが、再認識されたのは、有難い体験である。

翌日は、今度は、版画教室である。版画というやつは、小学生の頃に、お正月の年賀状などに、彫刻刀で、版画を作ってから、なかなか、やろうとする意欲と貴課員恵まれないものである。思い切って、ど素人の右脳退化の強制的再生のために、参加してみることにした。一日限りの即席の版画教室であるから、参加者全員が、思い勝手気儘に、まずは、基礎の基礎、版画の作成の仕方に関する説明を受けて、どんな絵を彫るのかという第一段階の絵の作成である。何でも周辺をしっかりと色刷り出来るように余白を十分に空けておいてから、彫ると宜しいとのアドバイス。考えてみれば、版画とは、写真のネガティブとポジティブのようで、蟻は、凸凹印刷のようで、トレーシング・ペーパーに転写して、これを赤いカーボン紙の上から、なぞると裏返しのような絵が反転、版画板のうえに、現れる。これを彫刻刀で彫るわけであるが、インクが、うまく彫った溝に納まるように、三角刀や、丸刀や、平刀等でもって、掘り進むわけである。ど素人だから、ついつい、下絵の線をなぞって、彫ることに夢中になり、上述のネガとポジの関係性をすっかり、放念してしまうものである。そうすると、絵の陰翳が、はっきりとせずに、単なる線での描写にしか、ならなくなってしまう。とりわけ、これが、多色刷りをしたいとなると、なかなか、厄介なことになる。私は、北アルプスを遠望するような山並みと、夜空に浮かぶ月と叢雲と星という主題で、飽くまでも、気持としては、志高く、ほとんど伊藤若冲の手による京都から大阪へ船旅の道中を墨の黒と白との対比で描いた版画(乗興船)を目指して(?)、気持だけだから、少しは、許されるであろう、、、、それにしても、先生曰くでは、月や雲はなかなか、難しいらしく、(それは、彫りながら、実感するが、後の祭りであった)、とりわけ、夜空に浮かぶ月は、まん丸く、しかも、月全体を彫ってしまった方が、墨が現れず、むしろ、宜しいと、、、、、、、。或いは、多色で、黄色にするとか、成る程、理屈であるが、そんなことをすっかり忘れて、刷って貰ってから、月を再度、丸く全部、彫ってみることにした。

寒い冬には、ストーブにでも暖まりながら、じっくりと、版画を作成してみるのも、面白く、大変興味深い。暑い夏場よりも、冬場に向いているのかも知れない。見本で、刷って戴いた版画を、額に入れて、飾ってみるとするか、次の作品は、亡き愛犬の写真をもとに、描いて、葉書サイズに、彫ってみることにしよう。今度は、多色刷りにも、挑戦してみることにするか?又、版画という右脳を刺激する新たな愉しみが出来たことは、喜ばしい限りである。次回も、機会があれば、版画教室に、参加してみたいものである。