小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

映画、「柘榴坂の仇討」を観る:

映画、「柘榴坂の仇討」を観る:

井伊直弼の実像は、歴史上で、本当に、頑迷な時代を読めぬ大老であったのであろうか?未だに、その評価が、定まらない人物であると云っても過言ではなかろうか?皮肉にも、生まれてからも、出世する機会に恵まれずに、逆に、それが故に、結局表舞台へと押し出されてきた為なのか、それとも、そうした境遇だからこそ、風流にも、若い頃には、精通して、なかなかの人物であったとの評価がある、一方で、皮肉にも、開国の方針が、考えてみれば、桜田門外の変は、1860年3月3日だから、その後の明治の跫音は、もう間近に聞こえていたのかもしれない、そんな外交政策も、あっさりと、後の世では、雪崩を打ったように、熱に浮かされたような攘夷から、一挙に、開国へと、反幕府側も、動いて行ってしまう訳である。襲撃した側も、襲撃された側も、それぞれに、冷酷な仕打ちに晒されたのは云うまでもない。そんな加害者側の生存者と被害者側の生存者という、ある種、全く別の角度からの、対照的な生き方、片や、明治の時代になっても、13年間も、刀を棄て、武士を棄て、ひっそりと逃亡生活を送る者と、同じ年月を、ひたすら、「武士の矜恃」を持続しながら、仇討ちの相手を探し続ける者。そして、その間で、時代の急激な変遷に合わせて、時代にうまく適合してゆこうとする者達、どちらが、正しいとか、どちらが、ベターな選択とか云うモノではないが、それぞれの人生模様が、そこには、時代の劇的な変遷に適応せざるを得なかった人間が、数多くいたのであろう。もっとも、彦根藩では、警護に携わった者達は、家族・縁者も含めて、切腹などの過酷な処断がなされたのも事実であるし、襲撃者にしても、命懸けで、直訴した以上、自訴・自決したものも、数多くいるし、捕縛されて、斬首されたものもいるのも事実である。最期の展開を記すのは、興ざめであるものの、家族とともに、生き抜くという途を選択するというエンディングは、何か、現代の生き方という課題をも、暗示しているようなものである。二人が、仇討ちの禁止という太政官の布告を無視して、斬り合いの挙げ句に、共倒れにならなくて、本当に、良かった、良かったと内心、ほっと、するものである。形は変われど、武士の矜恃は、相反する互いの鏡の中に、或いは、時代に適合をするというその中間の選択をせざるを得なかった多くの者達にも、又、継承されていったものであろうか?それにしても、男というものは、勝手なものなのであるのかも知れない。この映画の中に、描かれた様々な年代の「女房殿達」の思いとは、おおいに、複雑なものであろうと想像される。老母・老妻・妻・密かに慕う女・女児、後に、「士族の反乱」という形で、士の時代は、西南戦争で、終焉することになるのであるが、まだ、それは、桜田門外の変から17年も後のことで、この映画でも、この後4年後の出来事である。生きることを選んだ映画の主人公達は、その時に、どうしていたのであろうか?いつの時代でも、時代に、積極的に、適合するという選択も、逆に、しないという選択も、一体、何を守って、継承して、生き抜く選択をするのであろうか?或いは、何かを棄てないと、出来ないのであろうか?武士の魂である刀を棄てたり、髷を切ったりすることで、払拭できるものなのであろうか?なかなか、中村吉右衛門もよいし、音楽の久石譲も、よろしい、無論、時代劇には今や欠かせない中井貴一、そして、阿部寛も、広末涼子も、好演ではないだろうか?共倒れという残酷な結末になっていたら、どうであったであろうか?それはそれで、美しい武士の矜恃に殉じたと褒め称えられるのであろうか?それとも、時代に適合しなかった不器用な生き方と笑うのであろうか?現代という時代も、いつの時代も、形は変われど、如何に生きるべきかを考えさせられる。