小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

今年も、小諸里山生活をスタート!:

 

今年も、小諸里山生活をスタート!:

 

大雪の被害から、3週間余りも経過しているというのに、里山のそこかしこに、未だ、雪が膝の高さ程度は、ゆうにあるだろうか、相当残っている。北側の車を駐めるスペースは、道の除雪も手伝ったのであろうか、しっかりと、仕事を残してくれていた。ほとんど、陽の当たる所は、既に溶けていて、はるめいてはいるものの、まだまだ、今年は、気温がなかなか上がってきているようには、感じられない。「茶房、読書の森」での土壁塗りのワークショップは、昼の部は、肉体労働なので、夜の部の和久井ガーデンの和久井さんによる近江・京都・高雄でのお気に入りの庭・寺社巡りの報告会に参加することにした。司馬遼太郎によれば、庭というものは、一代で出来るものでは決してなくて、何世代にも亘って、又、ゆったりと時間を掛けて、完成してゆくものあって、我々は、どうやら、その後の完成された庭を堪能しているだけであって、なかなか、その変遷を時系列を追って、愉しめるものではなさそうである。坪庭などと言うものは、小さな猫の額ほどの面積の空間をも、上手に、別の世界に仕立ててしまうが、都会に住む人間にとっては、今や、そういう空間であっても、なかなか、敷居が高いものになりつつあるのは、残念なことである。出来ることなら、広い土地に、最低でも300坪以上の面積の土地に、自分の理想とするような庭を石や流水や草木を配して、作ることは、今の時代には、贅沢なものになってしまった。況んや、小さな敷地に、やたらとフェンスや樹木で、境界線を主張するかの如き庭作りには、辟易とするものの、残念乍ら、街つくりのコンセプトが、全く、訳の分からないものになってしまってきている。貧乏人だから、どうしても、色々な樹木を年々歳々、増やしてしまい、気が付くと、何とはなしに、訳の分からぬ景観になってしまうのは、残念なことである。おまけに、木々が、年を追う毎に、成長し、大きくなるにつれ、景観もおおいに、予定通り、見通し通りとはゆかずに、結局、埜坊主なものになってしまう。歯がゆいものである。どうしても、庭作りというものを勉強したわけではないから仕方が無いのであるが、私の庭への思いというものは、一言で言えば、「季節感」というものを大切にしたいと思うことである。春は、春なりに、梅や桃や桜を、愉しめ、夏は、夏なりに、秋は、秋で、紅葉を、落ち葉を愉しめ、冬は、冬で、雪化粧を愉しめ、どちらかと言えば、草花中心の庭と云うよりも、根が無精だから、自然な樹木の成長と衰退・世代交代を愉しむタイプだから、おおいに、無手勝流の、あちら様、自然様任せの愉しみ方であろうか?自然と人間という間の闘いなのか、それとも、調和なのであろうか?久しぶりに、フランス人ウーファーの上田で修行中のメジ君とも、逢えた上に、彼が作った一番搾りの初純米酒を一緒に、試飲できたし、和久井さんにも、今後、庭の観賞の仕方を色々と教えて貰おうかとも、思いました。併せて、近江という地にも、一度は、旅してみたいと思いました。今年も、又、新しいことを勉強できそうである。おおいに愉しみである。