小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

「感動の押し売り」という言葉に思う:

 

「感動の押し売り」という言葉に思う:

 

タケシ流に云えば、おいらは、もう、感動の押し売りには、辟易とするんだよね!と言う言葉が、聞こえてきそうであるが、流石に、世界の北野監督という二重人格者である以上、そこまで断言してしまうと、バッシングやブログが炎上でもしてしまいそうか?歳をとってくると、何処かしら、冷めた目で、或いは、ファナティックに、熱狂する傾向、とりわけ、マス・メディアが、こぞって、感動を強要(?)してくるような、そんな雰囲気のしないでもない報道姿勢には、こちら側にも、騙されないぞという気持が、生じて来て、一人、家族の中でも、孤立しがちである。(場外からは、その通りという声が、聞こえなくはないが、)それにしても、スポーツというものは、どうして、あそこまで、アスリート個人の偉業に対して、或いは、偉業を逃した選手に対しても、家族のことや、地域のことを、あれ程までに、あげつらう必要があるのであろうか?おまけに、「感動を有り難う」とか、「元気を貰いました」等と、云われると、私などは、どういう訳か、「ある種の違和感」を感じざるを得ません。そんなに、日常生活の中で、自然の中で、感動がないのか、元気ではないのか、、、、、と。ましてや、「感動を与えたい」等という発言を耳にすると、ひねくれ者は、そんなものは、願い下げだと、思わざるを得ません。感動などと云うものは、内的なものであって、それが、言葉になり、一人歩きし始めた瞬間に、全く、別のものになってしまうのではないかと思われます。そう言えば、どこかの国の総理で、大相撲の千秋楽に、「感動した!」と叫んだことを想い出すが、、、、。とりわけ、それが、ある種のメディア操作や、ある国々での国威発揚に絡んでくるとなると、もう、年寄りは、ついてゆけなくなるのです。素直に、喜べる人は、それで宜しいではないか?それを、与えるとか、貰うとか、云う必要が何処にあるのであろうか?逆説的に言えば、日常生活の中で、感動を覚える瞬間が見いだせず、元気にも成れずに、逆に、4年に1回の非日常生活の中でしか、そういう機会が訪れないということなのでしょうか?むろん、オリンピックの感動自体を否定するものではないが、あの膨大なカネが投じられた建設施設も、実際、国有財産の不当な払い下げにより巨万の富を得た富裕層の寄附に、賄われているとかとも言われているが、この後、どれ程の人達が、リゾート地で、そんな施設を使用するのであろうか?所詮、感動とは、その裏で、ショーに費やされた巨額のカネと総動員された人々の演出された舞台をベースに、演じられた壮大な演技だったのか?それでも、感動とは、変わらぬモノなのであろうが、、、、、。何度も、何度も、これでもか、これでもかと、報道されてしまうと、考えさせられてしまう。