小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

忘れられる権利、その2:

 

忘れられる権利、その2:

 

食べログによる投稿で、隠れ家的な店が、その独自のコンセプトが、侵害されたとかで、損害賠償請求と投稿の削除を求めて、訴訟に及んだということを報道で知ったが、確かに、忘れられ権利というものは、もっとも、この店の場合には、その権利自体が、商業マーケティング目的なものであるから、純粋な、忘れられる権利であるとは、若干、言いがたいところがないわけではないが、、、、、、それにしても、触れられたくないものを、不当に、公開されるのは、確かに、問題であろう。当然、そこには、「知りたい」という権利と、「知られたくない」権利というものとのせめぎ合いが当然あろうかと思われる。「肖像権」なども、本来、これらの範疇に入るべきものであろうし、それが、記憶という遺産にまで、進化するとなると、記憶していることと、忘れられることに関連して、若年性アルツハイマーを題材にした、映画、「明日の記憶」を想い出す。肉体的に、記憶できないようになること、忘れてしまうこと、これらは、意図的に、忘れることとは、当然、違うことになろうが、人間は、進化の過程で、「経験の継承」を、「記憶」という武器で有することになったと謂われている。良い経験でも、辛い経験でも、それは、ある種、時間の経過と共に、楽しい想い出になったり、教訓へとも、転化してゆくのであろうか?或いは、悪夢のトラウマみたいな経験や記憶は、忘れられるべきものになるのに、、、、、、。人間は、記憶し続けることと、忘れることとの絶妙なバランスの中で、生きられれば良いのにと思う。齢を重ねてくると、何もしないでも、忘れっぽくなるのであるから、忘れられる権利よりも、忘れられない権利を主張しなければならないかも知れない。社会的な弱者は、忘れられてはならないし、又、むしろ、忘れられる権利よりは忘れられてはならない権利以外の何ものでもなかろう。「声なき声」という言葉があるが、それこそ、声を発することが未だ出来る人間は、宜しかろうが、それすら出来ない人間の権利は、どうなるのであろうか?時間の経過と共に、忘れ去られる脳細胞の仕組みと忘れられてはいけないという人間の思いや想い出は、まるで、コインの裏表のような気がする。忘れられる権利、忘れてはならない事柄、忘れてはならない権利、忘れたいこと、忘れなければならないこと、そして、その対極に位置する、ひょっとして、仮にそういう権利があるとすれば、それらの義務とは、一体、何なのであろうかと、、、、、。その意味で、この課題は、難しい問題ではなかろうか。一寸、気になるところであろう。