小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

「世界記憶遺産」と「忘れられる権利」を考える:

 

「世界記憶遺産」と「忘れられる権利」を考える:

 

アンネの日記の本が、図書館で、連続的に、破られていることが発覚したらしい。そして、この本が、一種の「世界記憶遺産」であることを初めて知ることになる。それは、人類が、普遍的に、記憶されるべき事柄に関して、記憶しておかなければならない事象を指すらしい。一方、食べログの投稿で、本来、表に出されるべきでない隠れ家が外部に、公表されてしまったことによる損害賠償を裁判で、争うことになり、あるべき「忘れられる権利」Right to be forgotten という概念と表現の自由とが、争われることになったと、、、、、。考えてみれば、前者の問題は、謂わば、人類の普遍的な文化や博愛主義、ある種の共有すべき概念を、忘れないようにすると言うことであり、片や、後者の場合には、公表されたくないことや、周知されたくないことをネット上でも、認めて貰いたいと言う、なかなか、複雑、やっかいな問題である。歴史認識というものも、ある種、こうした中でのせめぎ合いで、我々は、忘れてならない人類共通の戦争の惨禍や、災害等を、確かに、決して、忘れてはならないことであるかも知れない。逆説的に、考えてみれば、忘れ去られてしまうような事柄というものは、所詮、忘れ去られるべき運命で、その程度の価値しか無いものなのか、それとも、愛国教育や、歴史教育で、植え付けられなければならないものなのであろうか?自発性の夜側面を重視するのか、それとも、ある一定の教育等による恣意的な措置がその維持には、不可欠なのであろうか?忘れ去られてしまうことは、忘れてはならない、記憶され続けなければならないということと、実は、どこかで、コインの裏表のような表裏一体なのかも知れない、と言ってしまっては、元も子もないか?それにしても、ある種の反知性主義というか、反文化主義とでもいうのか、ヒステリックな感情的な実に卑劣な行為であるとしか、云いようがない、そういう小さな兆候が垣間見られないこともない。タリバンによるアフガンの世界遺産の大仏の爆破やナチスによる焚書にも劣らぬ行為であり、一種の反知性主義に基づく狂気のテロ行為に、類するものであろう。これは、ヒトを殺傷しない一種のテロではないだろうか?我々は、断固として、こういう小さな芽を摘み取らなければならないであろうし、許してはならない。それにしても、3.11も、原発事故の教訓も、未曾有の災害も、戦争の惨禍も、大雪ですら、我々は、得てして、忘れやすいものである。世界記憶遺産という言葉と、忘れられる権利という言葉を聞いて、そんなことを感じたが、、、、。