小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

War Museum で考える:ベトナム訪問記その2

 

War Museum で考える:ベトナム訪問記その2

 

もう15年程、昔になるであろうか?当時は、まだ、ドイモイが始まったばかりで、タクシーも、ニャチャンの空港には無い時代、シクロの兄ちゃんが、片言の英語で、話しかけてきて、色々な所に、通訳兼ガイドとして、役立てていた時代の頃である。記憶も定かでないが、ホーチーミンと名前が変わったこのサイゴンの中心部に位置する建物は、何とはなしに、薄汚れた暗い雰囲気が漂い、訪れる外国人も少なかったような気がする。そして、何よりにも増して、想い出されるのが、枯れ葉剤で、体内で、奇形児として生まれてきた赤ん坊の標本が、無造作に、理科の実験室さながらに、ホルマリン漬けされた丸いガラスに納められて、ポツンと、置かれていたことである。毎月のように、タイ・ベトナムへ出張していたにも拘わらず、仕事だから仕方ないのであったのだけれども、改めて、15年ぶりに、訪れた戦争博物館は、随分と、昔のイメージと大きく、異なっているかのようである。むろん、屋外に展示されている戦闘機や、上陸用舟艇などは、相変わらず、かわらないものの、その訪れる外国人観光客の多さには、目を見張るものがある。とりわけ、アメリカ人、フランス人、等の欧米からの観光客、ブラジル国旗を掲げながら、スペイン語通訳を一生懸命に、聞き入る団体客、日本人を含めたアジアからの観光客、スカーフを巻いたモスリム圏からの観光客など、どの人も、どの団体も、声を潜めながら、重苦しい雰囲気の中で、展示されている資料に見入っている。それにしても、1階から3階まで、余すところなく、これでもか、これでもかと並べられた写真や現物の資料は、それでも尚、スペースが足りないといっているかの如くである。入り口の展示されている日本語でのベトナム反戦運動の資料は、何故か、私を、遠い昔ではなくて、若かった頃のまだ、とげとげしい青春時代の自分に、タイム・スリップさせてしまうかのようである。アメリカの大学生の反戦運動デモの写真には、地上に伏せって微動だにしない友人の横で、泣け叫び、抗議する女子学生の写真が、大きく展示されている。恐らく、タイムか何かに、掲載されている写真だったようにも、想い起こされるが、、、、、、。それらに見入るアメリカ人と思われる観光客は、まるで、必死に、米国国籍という今までは、自国にいるときには、誇りとしていたアイデンティティーを、必死に、覆い隠そうとするかの如く、振る舞っているようにさえ見える。それは、既に、2階から始まるこれからの戦争犯罪というものを、どのように、考えるかということを、観る側に鋭く問題提起し、自己の行動と責任に対して、容赦なく、問いかける序章に、過ぎないものだったのかも知れない。展示は、フランスに対するディエンビエンフーの抗仏戦争の闘いの写真から、反植民地、民族自決反帝国主義独立戦争から始まる。皮肉なことに、日本軍による南仏領インドシナへの写真は、何故か、写真の展示を省かれている(?)のは何故であろうか?それとも、私が、見逃してしまったのであろうか?それとも、ある種の政治的な意図を持ってして、ベトナム政府が、日本に対して、好意的に、第二次世界大戦時の民族解放運動での日本軍の役割を評価している証しなのであろうか?それは、少々、好意的すぎはしないかとも思われるが、後程、ベトナムの友人達に、尋ねてみることにしましょう。後述するように、全体的な構成が、反戦運動を高く評価していて、独自の軍事的な勝利とは別に、世界的な規模での、とりわけ、先進国でのベトナム反戦運動のうねり、ベトナム連帯と支援を高く評価している内容になっている。それは、全世界から、やってくる観光客にも、こうした有形・無形の支援と連帯を、まるで、感謝するようにも思えてならない。開高健小田実らによるベ平連なども、思えば、ベトナムに平和と連帯を、、、、、という幅広い、党派を超えた緩い運動体から、生まれたものであったことを想い出す。我々の世代は、1967年の京大の山崎君の死を契機に、その前後から、一気に、反戦運動が、燃え広がったように感じられてならない。それは、60年安保の樺美智子さんの死を伴ったことにも、共通しているのかも知れない。後年、三島由紀夫との東大全共闘との討論会で、いみじくも露呈することになった、「行動と言葉」の狭間に、まだ、その頃は、戦後民主主義の中で育った当時の若い僕たちは、一途な正義感だけで、気が付いていなかったのかも知れない。(最期の最期まで、闘うぞ!というシュプレヒコールは、何だったのか?ゲバルトとは、名だったのか?)私は、どうしても、我々の世代を、日本だけでなく、もっと広く、アジア諸国、例えば、中国では、毛沢東紅衛兵世代、(中国で生まれていたら、きっと、紅衛兵世代で、農村に下放されていたであろうし)ベトナムでは、ベトナム戦争世代、既に、兵役で、参加していた人、或いは、その頃に、生まれた世代、或いは、南ベトナム政府軍で闘い、その後、アメリカに、渡ったボート・ピープル世代、まさに、私の運転手の一人は、そうであるが、、、、或いは、北ベトナムから、統一後に、渡ってきた人とか、更には、韓国での同世代、ベトナム派遣軍に参加した当時の同世代、そして、フランスのカルチェ・ラタンでの学生による反戦運動、最期に、当時のアメリカで、反戦運動をしていた同世代、又、恵まれない環境下で、結局、派兵されていった一兵卒のアメリカ兵の同世代、こうしたグローバリズム下での運動として、重層的に、考えない限り、この歴史的な運動のうねりは、理解出来ないのではないだろうか、そんな気がしてなりません。

 

ちょっと、横道にそれてしまったので、こうした運動の分析は、別の機会に論じてみることにしつつ、2階から、3階へと、歩を進めてみましょう。

 

ビエンディエンフーの闘いの後は、あの忌まわしいベトナム戦争の犯罪の歴史を、これでもか、これでもかと云うほど、詳細に、写真と、そして、その破壊のビフォー・アフターを比較するパネルが、ずっと続きます。そして、更に歩を進めると、枯れ葉剤、所謂、エイジェント・オレンジの被害の凄まじさと悲惨さを見せつけるシャム双生児や、各種様々な奇形児の写真を見せつけられます。昔は、こんなに、多数の写真を公然と見せてはいなかったような気がするが、私の記憶違いだったのでしょうか?経済発展で、予算に余裕が出来たのでしょうか?その一角に、一寸、目を懲らさなければ分からぬように、下の方に、ホルマリン漬けの奇形児の標本が、何体か、隠れるように置かれています。何故、人目を憚るかのように、置かれていたのかは、分かりませんが、明らかに、それは、隠されるかの如くに、地上フロアー近くの目立たない高さに、隠されるように、展示されていました。流石に、アメリカ人観光客とおぼしき一団のとりわけ、若いアメリカ人達は、あたかも、自分たちが、アメリカ人であることを悟られないように、押し黙った、ジッと、目を懲らして、標本や写真に見入っていました。私は、南京虐殺戦争博物館を訪問したことはありませんが、このアメリカ人を通して、その日本人としての姿を容易に、想像出来ます。それ程、当時のモンサントなど、産軍複合体による化学兵器・毒ガス・枯れ葉剤などによる自然だけに止まらず、敵ばかりでなく、見方である若き海兵隊の除隊後での奇形児の発生などをみても明らかなように、甚大な影響を及ぼしたことは、明らかな歴史的な事実で、これらの求償の問題は、後で、ベトナムの友人から、聞いた話ですが、戦後賠償金の中で、一度は合意されたにも拘わらず、ベトナムカンボジアへの進駐の制裁名目で、後に、履行されなかったことは、今日でも、米・越相互貿易協定の中で、いち早く、政治的な決断から、国交回復・復帰の交渉時に、特恵関税供与国として、真っ先に、認定されたことは、決して、無縁なことではないでしょう。それにしても、今日でも、この被害の影響は、余りに広範すぎて、そして、余りに、人の心に、傷を負わせるもので、只単に、化学兵器という類や範疇の問題ではなさそうです。通常兵器の展示の中でも、とりわけ、ナパーム弾による被害の展示は、恐らく、一瞬にして、周りの空気もろともに、硝煙地獄と化してしまうほど、まるで、ヒロシマ原爆資料館の焼け焦げた死体を思い起こさせるほど、ひどい、被害者のケロイドです。こんものを空から、何十発となく落とされて、逃げゆく道を一瞬にして焼かれたら、たまったものではありません。3.10東京大空襲の時の焼夷弾にも勝るとも劣らない威力は、容易に、想像がつきます。更に歩を進めると同時に、いよいよ、忌まわしいソンミ村虐殺のコーナーになります。それらのコーナーの周辺には、日本人カメラマンの沢村氏や石川氏の撮影した写真や、遺品のカメラなどが、展示されており、装甲車の後ろに、まるで、戦利品でも持ち帰るように、殺害されたベトコン兵の遺体を引きずる写真や、戦死者の髑髏を頭に掲げた兵隊の写真、或いは、タイムやライフで、有名になった当時の何枚もの写真が、(街頭で、ベトコンの容疑者の頭を打ち抜く国家警察署長の写真等)展示されています。当時の現場から移設されたと思われる、遺体を投げ込んだ井戸の丸いコンクリートも、そこには、展示されていますし、虐殺された人々の名前や年齢・写真も遺品と同時に、飾られています。流石に、ここら辺まで来ると、アメリカ人観光客達も、押し黙るどころか、中には、ハンカチを目や鼻に押し当てている若い女性もいますし、白髪交じりの同世代の退役軍人と思われる連中も、非常に、複雑な思いで、押し黙ったまま、じっと、パネルに見入っています。戦争が、或いは、極限の恐怖が、若い兵士を駆り立てて、狂気のプラトーンの映画の世界に連れて行ってしまったかの如くに、しかしながら、それは、歴史上の紛れもない事実だったのかも知れません。被害者の側、そして、ここら辺りから、加害者の戦死者の写真も数多く展示されています。若い海兵隊員が、銃弾に倒れたとおぼしき同僚を必死に、蘇生しようとしている姿、人工呼吸を施すシーン、或いは、同僚に、もう、諦めろとばかりに、制止されている姿など、、、、、加害者が、いつの間にか、知らず知らずのうちに、被害者にも、変容して行く皮肉な姿、そして、それこそが、どちらの側にも、死ぬ者の側にとっては、勝利をもたらさない結果になること。一体、この「ベトナム戦争」というものは、何だったのか?民族自決、反帝・反米、民族解放闘争、自由主義共産主義、中国・ロシアからの支援がなければ、経済的にも、ベトナムは、勝利し得なかったことも事実であろうし、又、アメリカにとっても、経済的な疲弊がその後の政治的・経済的な威信の低下を招いたことも事実だろうし、ベトナムにとっても、その第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争の戦死者の被害者数・費やされた戦費・投下された爆弾の量の比較表のパネルをみても分かるとおり、尋常な数値ではないことも事実であろう。明らかに、それは、勝ち得たものに対する代価は、人的にも物的にも、大きすぎるものがあったのではないだろうか?しかし、何を勝ち得、何を失ったのであろうか?友人が謂うところの「テト攻勢」も、一種の外交攻勢を有利に進め為のもので、政治的には、最終的に、ジョンソンを辞任させる決意に追い込んだことで、決死隊の命は、軍事的に、果たして、報われたのであろうか?父親が、今年88才になる父親で、ベトコンの元情報将校だったという友人の言は、皮肉にも、今、米国に移民した私の元運転手の言とは、まるで、幕末の長州・薩摩藩の人間と会津藩の人間との人生の明暗と同じようなものに感じられてならない。ベトナム戦争後、或いは、その後の統一戦争後に、旧南ベトナム政府軍関係者の居留地を、その命の代償として、或いは、戦功の証しとして、接収して、只同然で、分配され、今日、馬鹿高いインフレ下の地価の恩恵に恵まれている人々と、米国へ、移民せざるを得なかったボート・ピープルも含めて、そういう人々が、実際に、今日でもいるという現実、それは、もう、日本人には、いつのまにか、忘れ去られてしまった昔の話なのかも知れないし、戦争後の家の繁栄と没落を経験してきた日本人も、今や、戦後の長きに亘って、とうの昔に、忘れて終ったことなのかも知れない。むしろ、日本人は、そういう事実を一生懸命に、戦後の復興の中で、忘れ去ろうとしていたのかも知れない。何か、今日のベトナムをみていると、そういう矛盾とか、対立を、実は、分かってはいても、敢えて、問題にせずに、歴史のダイナニズムの中で、昇華させてしまおうと自分を納得させているかのようである。植民地主義からの解放とは、それ程までに、大きな価値なのかも知れない。なにもかも、その前では、大きな矛盾すら、呑み込まれてしまう者なのかも知れない。まるで、それは、反日・愛国・無罪にも連なる超法規的な価値観なのであるかも知れない。恐らく、幕末から明治期に抱えての日本人という者も、或いは、私達の両親の世代も、又、戦争を生き抜き、家族の柱を失ったなかで、必死に、復興に向けて、一日でも早く、過去の遅れを取り戻そうとして、必死に、生きてきたのではないだろうか?戦争博物館は、フランス人やアメリカ人が、自国のアイデンティティーを押し隠そうとするくらい、その問いかけを鋭く、迫るものがあるものの、ベトナム戦争加担者であった当時の日本人には、或いは、韓国の人間には、一体、どのように、感じられるのであろうか?わずか、数時間の滞在時間であったが、私を含めて、皆、観光客は、一様に、疲れたような表情で、重苦しい表情で、出口へと進んでいたように思えてならない。一緒に入ったベトナム人の友人は、丁度その当時に生まれた世代だから、鳥肌が立ったようで、嫌悪感が増したとも謂っていた。子供心に、当時のフラッシュ・バックでも起きたのであろうか?私達、日本人は、第二次世界大戦を、果たして、客観的に、戦争の惨禍を検証しうるそんな施設があるのであろうか?靖国神社の問題は、単なる歴史認識だけの問題ではないだろう。それにしても、ベトナム人の誇りにも似たような輝かしい素直な(?)民族自決を達成した喜びに比して、今日の日本人は、アジアの人達に対して、或いは、世界の人に向かって、どんな価値観を抱けるのであろうか?或いは、提示しうるのであろうか?重い足取りで、私は、杖をつきながら、戦争博物館を後にすることになる。次は、いよいよ、新築祝いの記念式典参加である。

 

 

 

PS) お手伝いさんが、何でもWiFiだと、ラインなどに、のめり込むので、家では、WiFiにしていないそうで、なかなか、面白い現実を目の辺りにする。