小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

映画、「利休にたずねよ」に思う:

 

映画、「利休にたずねよ」に思う:

 

これまでの利休と秀吉の関係を描いた映画は、いくつかあったと記憶しているが、利休400年遠忌の1989年には、野上彌生子原作の本を三國連太郎66歳)、山﨑努(53歳)で、映画化され、更には、井上靖の原作である、「利休、本覚坊遺文」で、本覚坊を奥田瑛二(39歳)、秀吉を三船一郎(69歳)、そして、今回、「利休にたずねよ」で、市川海老蔵36歳)が、利休役を、大森南明(41歳)が、秀吉役と、それぞれの映画が上映されたときの年齢を一寸調べてみることにした。映画では、三國連太郎と今回の海老蔵の2作を観たものの、残念乍ら、奥田瑛二の映画は、原作の井上靖の「本覚坊遺文」著作のみの読書だけで、映画は、観ていない。別の機会に、改めて、DVDで観ることにするか?それにしても、映画であるから、多少の原作との齟齬は致し方ないとは思うが、若い時の利休が、朝鮮語を多少でも理解出来ていたのか、どうかは、定かではないし、それを衒って、韓国との政治的な対立の融和や茶道の由来を、朝鮮半島にまで、及ぼすという議論には、どうも、納得しないのは、何故だろうか?(広い意味合いでは、文化自体が、中国・朝鮮半島経由か、琉球から伝来していることを否定するモノではないが)高麗からの身分の高いであろうと思われる女性の話は、確かに、利休の「美とは何か」を体系化する上で、ある程度、内面的に、或いは、私的な夫婦生活の上でも、影響があったことは、想像に難くないものであろうが、それが、映像として、或いは、やや断定的に、描かれてしまうとなると、如何なものであろうかとも、思ってしまうのは、私一人だけであろうか?映画的に評価するとなると、やはり、三國連太郎と山﨑努の演技上でのやり取りの方が、記憶が定かではないが、やはり、迫力があったのではなかろうかと、軍配は、そちらの方に上げたいところである。本来は、この3作比較の中で、利休の妻の役者、娘役などをも、それぞれ、比較して総合的に検討して見たら、面白いかも知れないが、、、、、、、それらを差し引いても、映像として、美とは、何か?生と死とは何かを、一輪の椿の花の生け方、蕾に対する哲学的な印象、木槿の花(朝鮮の国花)にも、そして、各種の茶器、香炉、燭台、蝋燭の炎に揺らぐ和紙に透けた雀の羽音まで、或いは、故意に、欠けさせて初めて、その土器の本来有するところの美を演じさせる場面、或いは、水盤の上に、満月を桜の花びらをあしらう計らい、障子を開け放って、室内に風を呼び込み、桜の花びらを落とす風情とかの各場面、美意識とは何か、趣き・風情とは何を指すのか、わび・さびとは、何かと、、、、、、、日本人の美意識とは何か?、、、、、、、、、。映像として、描き出して初めて知ることもあろうか?そして、それが、日常生活の中で感じられることこそ、芸術美というモノであることを知ることにもなるようである。その意味では、常に、映像というモノは優れて、著作上での想像とは、又、異なる感じられ方があるものでろうか。それにしても、最期に、彼女が朝鮮語で言い残した意味を、「あなたは、生き抜いて下さい」であるという事実を、琉球の人から、告げられるのは、いかにも、現代の沖縄・朝鮮・日本という構図を、琉球・李朝の女性・(秀吉)利休という構図で、考えてしまうのは、少々、考えすぎでしょうか?美しいモノを決めるのは、自分であると云う自負心は、もはや、権力者を超越したところに、自らをその高みに置くことになるのであろうが、それが「死」という「最高の美学」に誘ってしまったというものは、やはり、生きているものが言う戯言でもあろうか?最初で最後となってしまった父との共演は、どうやら、息子、海老蔵の方が、良かったような気がしてならないが、、、、、、、。褒めすぎであろうか?それはさておいても、時代劇で、存在感を表すことの出来る若手俳優が、何やら、NHKの朝ドラ出身者や、仮面ライダー出身者だけでは、日本の時代劇も、情けないように思うが、それは、私達の世代は、やはり、中村錦之助や、大川橋蔵、大友柳太郎、とか、時代劇全盛期を、子供の頃に、経験した世代だからなのであろうか?ヤンチャな海老蔵も、そろそろ、歌舞伎もさることながら、時代劇でも、存在感を示して貰いたいところであるが、ライバルの役者が、早く出てきて貰いたいところである。引き立て役とは言わぬが、竜虎相撃つと言うようなそんな役者が、出てきてもらいたいものである。そんな感慨を感じた。井上靖の「本覚坊遺文」を再読してみることにするか?