小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

アート・ディレクター、北川フラム講演に考える:

 

アート・ディレクター、北川フラム講演に考える:

 

大地の芸術祭越後妻有アート・トリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」でも、アート・ディレクターを務めた北川フラム氏の講演会を、NPO法人の「虔十公園林の會」主宰で、開催するというので、参加することにした。毛沢東による「農村が都市を包囲する」戦略ではないが、アートを大いなる武器として、現代アートでも、音楽でも絵画でも、舞踏でも、或いは、芸術・美術が、本来的に有する自然との関係性を大切にして、そこに住む人々が、笑顔で、幸せと感じられるようなそんなアートを国内外のアーティスト達と「協働」で、根付かせる活動を、演出している立役者である。まるで、それは、越後妻有の廃校のアートや過疎・離島のアートが、都市に訴えているかのようである。もう、これまでの都市が、地方の街や村に、埋蔵・貯蓄されていた富を分配・伝播させるという、「都市の論理」:「極端な効率化・情報の集中化・一極集中化」等では、今日、もはや、立ち至らなくなりつつあるのは、冬季長野オリンピックの時に馬鹿げたくらい創り出された不毛な日常、使用されていない農道の舗装道路化をみても、分かろうというものである。「一強多弱」の現実が、今日のグローバリゼーションの結果である。「文化」というモノは、現代の合併された「行政区」では、語り尽くすことが出来ないのも事実であろう。むしろ、逆に、各地域、各地域毎が、小さいながらも、点の中心となり、それが線に、面へと、推進されなければならないという。アートというか弱いモノを、武器に持ちながら、アートの特性を活用して、文明との関係性を、生活に密着させて、謂わば、今日の院展に象徴されるような「動産的なアート」ではなくて、自然との、土との、或いは、海や、河でも、湖でも、山でも、そこにある息づいている人間そのものの「自然との関係性」に於いて、「人間は自然の一部として、表される」ようなアートの存在を媒介に、試みたいと、、、、、、。そこに住み暮らす人々とアートや美術との関係性とは、「そういうモノ」でありたいと、、、、、、アルタミラ洞窟・ラスコーの洞窟の絵の原点のような、、、、。だからこそ、棚田が、老齢化に伴う耕作放棄を余儀なくされた場所に、先祖代々の農民の受け継がれた想いを、作品として、空間アートとして、残されたわけである。世界的なアーティスト達は、恐らく、そういう志しに、マーリア・ヴィルッカラ、クリスチャン・バスティアンス、ドミニク・ペロー、クリスチャン・ボルダンスキー等、ある種の建築家魂や芸術家魂をくすぐられたのではないだろうか? それにしても、徹底的に、しつこく、これでもか、これでもかと、やり続けること、但し、プロの手により、外部の人間を含めて、行われなければ、到底、成功には覚束ないようである。それにしても、地域の住民を巻き込んでの「運動体」たり得べき条件とは、何なのであろうか?少なくとも、運動を担うべき若い人達が、持続的に、活動できうる条件とは、勿論、運動を担うべき「個の主体」はいざ知らず、ある種の方向性とか、国内外への情報の発信とか、情熱だけではなくて、プロフェッショナルなノウハウが、やはり、そこには、総合的に集約されてこなければ立ちゆかなくなることは必至であろう。来年、2014321日から始まる、「晴れたら市原 行こう」アート・プロジェクトも、一つの方向性を試みるものであるらしい。ほとんど、これまで、右脳細胞が、機能してこなかった元貿易マンの私にとっては、なかなか、刺激的な講演であり、おおいに考えさせられたし、今後、どのように、NPO活動、地域活動に関わっていったら良いかを考えさせられるモノがありました。今度は、市原にも行ってみようかな。