小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

里山の時間と都会の時間:

 

里山の時間と都会の時間:

 

深夜の高速道路を走行していると、それは、まるで、走行車線、追い越し車線、そして更に、もう一車線、外側を疾駆してゆく車と、多種多様であり、まるで、里山の時間と都会の時間の縮図のような気がしてならない。何も、チェック・インの時間を気にする必要もないし、ガンガン、追い越して行く必要もない。渋滞で、動かないこともない以上、安全運転で、走行車線をそれなりのスピードで、流れに乗りつつ、オート・クルーズを設定しておいて、ガソリン燃費を一番ベストの速度で、走ることにしている。そう言えば、昔、「ゾウの時間、ネズミの時間」と言う本を読んだ記憶があるが、(動物の違いによる体重と時間速度認識との関係、環境適応性の問題などを、興味深く、説明した内容であったと朧気ながら、想い出すが)都会の時間は、今や、速すぎて、一寸、ついてゆけないモノがある。エスカレーターも、恐らく、一番効率の良い速度に、設定されているのであろうか?異常に、速く感じられる。確かに、現役の頃は、生産性とか、効率とか、人数X時間とかいう概念で、すべての効率や生産性も一定の数値管理の下で判断され、まるで、機械の一種のパーツのように、取り扱われることが当たり前であったし、エネルギー・コストも、水の消費量も、商品・生産物というものは、万物、すべて、この市場経済の中では、時間の概念と共に、数値化を免れないのであろう。何とも、冷徹な資本の原理原則に、とらわれていると云っても過言ではないであろう。Change of Pace や、時間の概念のスイッチの入れ方を、人間というものは、ある程度、何処かで、場面場面で、Gear Changeしないと、ストレスが、たまりかねない。五感を研ぎ澄ませて、研ぎ澄ますまでもなく、せいぜいが、多少とも、五感を感じられるような環境をもっと、身近な生活の中に、都会では、作り出せないものなのであろうか?里山生活に戻ると、そんな気がしてならない。