小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

日本人インド仏教再興指導者とカースト制下の不可触賤民:

 

日本人インド仏教再興指導者とカースト制下の不可触賤民:

 

奇しくも、信濃毎日新聞の山ろく清談の中で、取り上げられていた佐々井秀領氏の記事の傍で、カーストを超えて結婚した最下層の男性が、悲劇の結末として、自殺とも他殺とも云われかねない不審死に、見舞われるという記事が、目にとまった。インドには、ヒンズー教のカースト制度で、最下層とされてきた「不可触賤民」が、1950年、憲法により廃止されても尚、今日でも、公然と、そうした筆舌に尽くしがたい「悲惨な差別」が、続いていると、、、、、。「闘う仏教徒」として、50年近くも帰国もせずに、インド仏教を再興する活動に身を委ねて、現地での改宗活動に、関わってきたことは、日本人として、おおいに、誇りに思って良いのではなかろうか。最も、敢えて、「闘う」と冠した訳は、如何に、仏教界が、「闘ってこなかった」、或いは、「闘っていない」事実を、過去も、現在も、示しているという皮肉であろうか?確かに、仏教徒になれば貧困から逃れられる保証がある訳でもなく、偏見が無くなる訳ではないが、それでも、最低限度の「人間としての尊厳」を取り戻すことが出来る「きっかけ」になることは、少なくとも、事実であろう。印度現地では、和尚様と子供達からも慕われる、そうした活動をしている人物の目から感じた日本は、どうやら、僧侶は、今や、人々からは「遠い存在」になり、葬式や命日や盆の先祖供養などの宗教行事化してしまい、と同時に、街を行き交う人々からも、「熱」を感じられないという。同僧によれば、人間は一度は死ぬのであるから、「必死」ではなく、何としても、生きなければならない。「必生」(ひっせい)が、必要であると、、、、、、、。

 

そういう意識が、活気を与える原動力であるとも、訴えている。3.11にしても、原発にしても、日本仏教界からは、その既存・新興宗教の如何を問わず、どうも、大きな声が聞こえてこないが、「闘う仏教界」は、日本では、どうして、存在し得ないのであろうか?身分制という差別はなくなったものの、「心の中での差別意識」や、「貧富による差別」が、日夜、紙面に踊らぬ日はないのは、どうしたものなのであろうか?この77歳の老僧の言葉と行動・生き方に、学びたいものである。それとも、単に、他人の不幸に目をつぶり、インド人に生まれなくて、良かったと思い、呟くだけなのだろうか?