小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

「生生(なまなま)」という生中継情報発信が増えていると:

 

「生生(なまなま)」という生中継情報発信が増えていると:

 

NHK「ドキュメント72時間」によれば、自分のPCをミニ中継端末にしてネットで、生中継をする人が、増加しているそうである。様々な人々が様々な情報を発信しているそうで、たわいのない夕食の風景や唄や踊り、コスプレや女装すらもあって、しかも、数千人の固定ファンを持つ人や一日10万件までにも達するそうである。反原発デモの最中に、その動静をアップ・ロードしたり、ツィッターで、呟いたりするのは、これに較べると、今や、カワイイ情報発信手段とまで化してしまっているかのようである。中には、話しかけられるのをひたすら待っている自分自身の場面を生中継している人までいる始末である。一体、「何を求めて」、生中継したいのであろうか?一体感なのか?それとも、自分の存在を自己顕示する為なのか?「自分の場所」とは、何なのか?人と繋がる?昔は、それこそ、安田講堂浅間山荘立てこもりの実況中継など、所謂、「官製生中継」であったのに対して、今や、自分で、本当に、自立して、生中継しているモノなのだろうか?何処が、違っているのか?「生中継」をするという本当の「真意」とは、一体、何なのであろうか?それが、情報の「発信」ということなのか?発信という意味は、どういうことなのであろうか?しかも、画面に出てくる「同時レスポンス」の書き込みを観ながら、又、即時、その場で発信するのだそうである。しかも、それを又、画面に投影しながら、、、、、。「双方向」とは、そんな程度のことなのであろうか?そこで、何か、「新しい化学反応」が生ずるのであろうか?こういう延長線上では、きっと、無差別殺人やテロや自殺自演すらも、近未来で、生中継されてしまうのではないだろうか?他愛のないと言ってしまえばそれまでであるが、ナマであるという「同時性」は、何を条件になり立つのであろうか?「ナマの同時性であるべきもの」とは、一体、何なのであろうか?「発信する側の人」の真意が、伝わってこないが、それ以上に、それを期待する側の人、「受ける側の人」は、「何を期待する」のであろうか?何を期待して、レスポンスするのであろうか?実に、得体の知れない感じがしてならない。考えさせられてしまうが、只今、増殖中であるとは、、、、、そして、これが事実であるとしたら、どのように、この事態を考えたらよいのであろうか?考えさせられてしまう。既存メディアは、どう考えているのであろうか?