小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

観ているだけの田植えに思う:

 

観ているだけの田植えに思う:

 

何も出来ない、観ているだけの田植えというものも、何とも、切ないものである。今年も又、稲作とお米というものを、一年に一度、考え直す時期が来た。それにしても、食物というものは、確かに、水量に換算されて然るべきものであるのかも知れない。水利権や、地下水の問題、反当たりの収量・肥料・除草方法などというものは、今日的な意味からも、見直される必要があるのかも知れない。まだ、風は、少々冷たく、夜には、長袖、一寸、ストーブを焚かなければならない程であったが、こんなに、遅い時期でのストーブ使用は、記憶にない。これでは、温泉で暖まった身体も、たまったモノではない。少々、曇っていたために、流石に、暑くはなかったものの、蛙やタガメや、ヒルや水蜘蛛も、元気に、田んぼの中で、共生していた。米を作ると言うことは、食育ではないが、もっと、高尚な哲学的な、生きる、働くという意義や意味を、見つめ直すよい時を与えてくれるものではないだろうか?それにしても、見下ろすと、下の方に拡がる田んぼは、耕作放棄され、やりたい放題に雑草が生い茂り、無惨な有様で、その境界線も、今や、不明な状態である。農業の再生が叫ばれて久しいし、昨今では、農業の競争力の強化が、アベノミックスの中で、打ち出されているものの、現状では、そういった取り組みが、まだまだ、実感として湧いてこない状態であることは、間違いなさそうである。ヒョンなことから、八重原米の玄米を少々、戴いたが、これからの実りの秋が、たのしみである。又、再びの収穫が出来るようになれば、宜しいが、、、、、。たまたま、隣の下の田んぼで、機械で、田植えをしている人がいらしたが、危うく、土手に、登るときに、機械が、まるで、タンクが乗り上げるように、大きく、空中に、突き上げて、斜め仰向けに、転倒しそうになり、耕作機械の事故にも、十分、注意しなければいけないことを、改めて、感じた次第である。そう言えば、こちらの小さな田んぼの形は、機械が入りにくい、変型した形であることが、改めて、納得された次第である。