小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

海外ウーファーにみる「Gap Year」を考える:

 

海外ウーファーにみる「Gap Year」を考える:

 

我々が、未だ学生の頃には、書を棄てて街を出た挙げ句に、ヒッピーか、ドロップ・アウトしか、或いは、中途退学の選択肢しかなかったような気がしてならない。人生に「寄り道」は、必要だと思っても、なかなか、その敷かれたレールの軌道から外れて、勝負することは、極々少数派であったような気がする。せいぜいが、能動的な選択と言うよりも、どういう訳か、やむを得ぬ強制力による選択であったことの方が多いような気もしないではない。海外ウーファー達と話をしていて、面白いなと思うのは、学生でも、社会人でも、一年や二年程度の海外での体験は、全く、寄り道だとは思ってないことである。むしろ、積極的な人生経験にとって、プラスになるのではないかという「前向きな姿勢」である。それは、文化でも、アートでも、肉体労働でも、何でも自分に身につくように取り込んでしまうよい意味での貪欲さ、冒険心である。日本の社会も、徐々にではあるが、社会が成熟化して、これまでの決まり切った紋切り型のモデルでは、なかなか、現状打破が出来ずに、おまけに、発展途上国に追い上げられる始末では、確かに、机上の勉強だけでは対応不能で、そうではなくて、様々な経験を積んで、異分野で学んだこうした寄り道をした「Gap Yearの必要性」が、叫ばれるのかも知れない。残念乍ら、我々の世代は、学校生活の中で、或いは、社会で出てからの場で、逆に、色々な経験を積ませて貰ったのかも知れないし、学ばせて貰ったのかも知れない。いずれにせよ、「人生の寄り道の勧め」というものは、寄り道と思うか、それとも、役に立ったと判断するか、それは、本来、本人が決めることなのであろう。但し、それを許容できる社会の成熟と寛容さが欲しいものであるが、果たして、日本という社会は、それを許すだけの余裕と成熟度と寛容さが、家庭にも、あるのであろうか?それが試される時であろう。もっとも、人生とは、一寸、寄り道していても、容赦なく無慈悲にも時間というものは、経過してしまい、気が付けば、その寄り道が、人生そのものだったということに気付くかも知れないが、、、、、。ご用心ご用心!まぁ、それも、考えようによっては、人生そのものかも知れない。