小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

トースターに見えるもの:

トースターに見えるもの:

我が家のトースターの一台は、既に、20年以上、故障もなく、しっかりと、働いているが、もう一台は、残念乍ら、タイマーが、故障したままである。何とか、直したいと思い、上から、下から、横から、ねじ穴を探そうとしたが、全く見当たらない。正月の広告を見ていると、何と、特売で、1000円代ではないか?それにしても、タイマー以外の機能は、全く、不具合はない。キッチン用のタイマーを使用して、いつも、パンを焼く時間をセットしては、ピピピッとなると、取り出す手作業、マニュアルである。たまに、焦がすが、、、、、。特に、これで、不自由という訳ではないが、ストレスなのは、むしろ、「修理できない、そのこと自体」である。しかも、自分で、やろうにも、やれないというもどかしさ、時間は充分ある。やる気もある。但し、皆目、修理の方法が分からないのである。しかし、直し方さえ、教えて貰えれば、修理可能であろうが、、、、、、現実は、そうはゆかないのである。時代は、既に、そういう消費者を置き去りにして、ものづくりが、体系化されているのである。説明書というものには、基本的に、修理などは、前提に書かれていないのである。もうとうの昔に、耐用年数・減価償却(?)は終了しているのだから、新型を、しかも、当時よりも、デフレで、もっと安く買えるのだから、買替えた方がベターであるとでも謂わんばかりに、これでもか、これでもかと、家電の広告は、圧力を増してくる。この内なる闘いは、もはや、神経戦的な消耗戦に近いものである。頑固者のモノを大事にするモッタイナイ派の消費者、今や、稀少価値の絶滅寸前危惧種の消費者と、これに対峙するところのメーカー側の使い捨てコンセプトの永遠の闘いであろうか?もはや、こうなると、カネの問題ではなくなる。意地なのか?いや、大義なのだろうか?何の大義か?創られたトースターの声なき声の大義の為なのか?食品みたいに、総平均原価を下げるために、ストックを持つというわけにもゆかず、キッチン・タイマーを活用するという選択肢しか残されていないのだろう。すすけて黒光りした故障していない片一方のトースターには、黒い文字で、「ナショナル」の文字が、燦然と輝いているのは、何とも、皮肉である。もっとも、リコールで、未だに、何年も経過しても、一つ残らず、回収するまで、探し続けなければならないのも、プロダクト・ライアビリティー(PL)の観点からすれば、大変なコストが掛かっているのも事実であり、何とも皮肉な矛盾する展開であろうとも思われるが、、、、、。