小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

浜矩子著、「新・国富論」を読む:

浜矩子著、「新・国富論」を読む:

 

経済学説というものは、その時代が色濃く反映されたものであり、その時代背景を十分認識していないと、確かに、理解出来ないし、その価値の今日的な再認識なり、応用は、出来ないものであろう。何故、アダム・スミスなのであろうか?今日、ヒト・モノ・カネ(順番に注意!)が、簡単に、国境を越えて移動するグローバル経済では、カネが、ヒト、モノを引っ張り回し、企業が成長しても、必ずしも、人々はしあわせになるとは限らない。今や、国民国家も機能不全に陥っている。そもそも、国富論のタイトルは、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 諸国民の富の性質と原因についての研究」であって、国民国家なくして、その経済学の誕生は、なされなかった。因みに、刊行された年には、アメリカ合衆国が、イギリスから独立するという時代背景があったことも見逃せない事実である。諸国民の富であって、諸国家の富ではない。それでは、「諸国民の富」の概念とは、一体何なのだろうか?国民国家とは、何なのであろうか?それは、国富という概念自体が、一国で、一定の自己完結性をもって初めて確立していることを前提としているのであれば、今日のこのグローバル社会とは、どのように、違うのであろうか?今日のグローバル社会とは、即ち、グローバル・サプライ・チェーンという巨大な構図そのものであると言い換えても過言ではない。モノづくりのためのヒトの役割分担は、今や、その中に、組み込まれていて、カネは、ヒトによるモノづくりの世界と袂を分かち、自分勝手に、一人歩きし始めてしまったと、アダム・スミスが、厳しく戒めた当時の重商主義者と今日の泥棒貴族達(ポール・クルーグマン教授が、こう表現しているが)とが、重なって見えてくるが、、、、、。労働価値説や見えざる手は今日、どのように理解したら良いのであろうか?

 

本書とともに、旅をすることにする。

 

グローバル長屋を、地球という長屋に例えて、ヨーロッパ長屋、アメリカ長屋等と呼称して話を現状分析しながら進めてゆく。但し、このグローバル長屋には、嘗てのパックス・アメリカーナや、ブリタニカのように、確固たる大屋が今や、不在で在り、皆んな店子ばかりであると。火消し役の欧州中央銀行もFRBも、本来の火消し役のはずが、火種を消すのではなくて、飲み込みながら、超えてはならない一線を、今や、超えつつ在り、不良債権を手許に抱え込み、本来、民間企業が、潰れるべき所を、国毎、倒産の危機に、陥りかねず、財政の壁から、更には、財政の崖へと、事態は、悪化の一途を辿りつつあるのが、現状であると。市場の失敗を補うのが、財政の主たる役目であるが、アメリカ長屋もニッポン長屋も、悩みは同じであり金利が、事実上、ゼロの近い所に押さえ込まれれば、体温計は、体温計の役目を果たさなくなりつつあると。次々と、財政出動しても、容易に、カネが、国境を越えるグローバル時代だから、高収益を求めて、どんどん国外に流出してしまい、金融緩和してもカネは国内には廻らないことになると、中央銀行が、事実上の国債買取機関化してしまい、財政から、規律というものがなくなり、独立性が失われつつある結果に陥ると、更には、LIBOの不正操作の件を引き合いにだしながら、究極の自主規制的な国際的な金融ガバナンスが、傷つけられ、人の褌で、相撲を取るところのウィンブルドン化現象が、とりわけ、金融ビッグバン以後に、顕在化してきたと。

 

(ヒト・モノ・カネ)の順ではなくて、今や、まず、カネが国境をいとも簡単に、何の未練もなく、超える以上、(カネ・モノ・ヒト)の順番に変質しつつあるようである。要するに、世界的な標準規格というグローバル化と称する流れは、おおいに、カネ先行で進行し、通商というテーマが廃れて、通貨が、全面に、押し出されてきた訳である。更に、それが、IT化の波と共に、ミセス・日本人妻という名前の一億総デイトレーダー化というFX等の為替取引とも相俟って、カネは、実体経済のモノからかけ離れたところで、一人歩きを始める訳である。そして、それに一番キリキリ舞いさせられるのが、実は、国民国家なのであると。それが、如実に色濃く反映させたものが、90年代のアメリカン・スタンダード(世界標準)であり、ゴールディロックス・エコノミーとその後のリーマン・ショックを経て、果てしなき安売り合戦や格差や貧困などの今日的な課題へと、導かれるのである。一時期、想い出せば、マスコミは、こぞって、「ストックから、フローへ」、或いは、「貯蓄から投資へ」(実際には、銀行預金=貯蓄で、証券、株や債券の購入=投資・投機へという大いなる誤解)と、掛け声も、勇ましく、まるで、開戦前夜の戦争待望論を鼓舞するかの如き様相であったことを想い起こす。カジノ金融へと変質してしまった。

 

筆者が、総括するように、確かに、

 

1.     グローバル時代は、必ずしも、グローバル・スタンダードの時代ではない。

 

2.     グローバル化とは、均一化ではなく、多様性である。

 

3.     グローバル化は、巨大化ではなく、極小化である。

 

4.     グローバル時代は、国民国家の危機である。

 

5.     地球時代は、逆に、地域の時代に他ならない。

 

そんな観点で、今日的な欧州EU危機や、超メタボ・キリギリスであるアメリカの財政の崖や、老青年のアリさん国家である日本のアベノミックス、天才子役の中国経済のハード・ランディング問題などを別の角度から、眺めるのもどうやら、価値がありそうである。よく考えてみれば、中国の富裕層と貧困の問題も、別の形で、日本にも程度の差はあれども、実際に、存在するし、アメリカにも、(we are the 99%)という反Wall Streetデモでもみられるような豊かさの中に併存する貧困問題の底流があるのは、事実である。新たなバランスというものは、如何にしたら、可能なのであろうか?

 

 再び、筆者は、アダム・スミスが異を唱えた当時の重商主義・労働価値説を考察する。商品の価値は、その生産にどれ程の労働が投下されたかによって、決まると、だとすれば、当時は、カネ=金貨をより多く獲得出来た人間が勝利者である以上、売る物の量が多ければ多いほど、代金が入手可能であるから、自ずと、保護主義(見えざる手に対するところの見える手である:権力)、植民地貿易の独占権という覇権争いの戦いに陥ることになる。これまで、人類は、三回のグローバル時代を経験しているが、国富論の時代は、第一次の大航海時代ではなくて、第二次の産業革命(蒸気機関と機械化)18世紀から19世紀の初期の時代であり、我々は、今日、IT主役の第三次グローバル化時代である。これらに共通するものは、何なのであろうか?それは、著者によれば、「労働・市場・通貨」の三点セット:分業の利益であると、今日のスマホの分業生産の例を挙げつつ、説明してゆくことになる。分業の効率を確立化した上で、市場概念を導入し、これらが、結びつくことにより、一段の分業の高度化と生産性の向上に繋がる。市場は、広ければ広いほど、自由であれば自由であるほど、ベターであり、何人も何物も作意や恣意や裁量を施さないのに、社会の利益が促進され、国富は、極大化することになる。ところが、こうした見えざる手による結果的には最善のところに物事が落ちついて行く筈の「合成の勝利」は、実は、「合成の誤謬」という現象を招来してしまうと著者は云う。つまり、誰しもが、個別的にみれば、正しい選択をしているのに、正しい解答を誰もが選択する結果、全体としては、極めて不合理で不正解な結果に至ってしまうと。今日では、自己完結的な一国主義化ではなくて、グローバル・サプライ・チェーンという名前の究極の国際分業体制なのであり、交換動機こそが、国際分業を生み出す本源的な原動力であると。「見えざる手」への盲目的なお任せ主義ではなく、或いは、弱肉強食的な市場礼賛・原理主義でもなく、又、市場が、無謬性を有していることを主張しているのではなくて、むしろ、アダム・スミスは、分業に発達に伴う「人間の知性の退化」について、警告を発しているのではないかと、著者は、推論する。未開社会の思わぬ利点にも言及しながら、「選択と集中」ばかり、流行ったり、視野狭窄と大局観の欠如が、やたらはびこり、究極の国際分業の果てに透けて見えてくる低水準労働による極限的な人間疎外の問題の中で、何をすべきなのか、何が出来るのか、そして、何が出来なくなってしまったのかを、再度、「国富論」を読み解くことによって、考え直すことは、意義深いことであろうと。その意味で、「知性の退化」という問題提起は、現在のほとんど麻痺した我々の感性にとっては、大変、痛い言葉のように感じられるが、、、、、、、、。

 

 タイの大洪水や東日本大震災を通じて初めて垣間見えたグローバル市場のサプライ・チェーンの危うさは、これまでの一国市場主義や、所謂「国際競争力」や「○○立国」という言葉を、今や、何処かへ、置き去りにしてしまったのである。収益性と継続性を追求することこそが、企業の本質である以上、「公共の利益」を促進するということは、可能なのであろうか?第三次グローバル化時代は、「全体最適」は、「部分最適」を必ずしも保障する訳ではないし、明らかに、今や、そうではないことは、誰の眼にも、明らかである。国際分業が究極化し、自国の雇用が減少し、技術は流出し、風化して、地域経済は疲弊してしまい、空洞化と潜在的な金融リスクは、金融工学的な手法の下で、拡大し、通貨価値が上がるにも関わらず、その逆の成果に陥るという「解体の誤謬」という「全体は天国、個別は地獄」という大不正解な現象が、生じているのが、現実であると。国破れて、山河ありではなくて、今や、国破れて、或いは、企業敗れて、何もなしという状況に陥ってしまう。

 

 アップルのiPhoneiPadを例に挙げつつ、羊羹チャートで、「その財の生産地と製造元企業の国籍が必ずしも一致しない」という現実を、複雑な第三次グローバル化時代の複雑なサプライ・チェーンの構造を、具体的に、詳細且つ、立体的に、解説する。

 

想い起こせば、生まれた年には、為替レートは、365円だったが、社会人になる頃には、308円、この間、金本位制の崩壊、国際基軸通貨であるドルの崩壊による管理通貨制に、オイル・ショック等、250円から、100円へ、更には、80円へ、そして、金融リスク・ヘッジの極小化の為に編み出されたはずの金融工学的な手法が、逆に、リターン極大化の為に、形を変えて、逆襲し始めて、為替デリバティブやら、FX取引(外国為替証拠金取引)や超円高、サブプライム・ローンによる不良債権の問題や、更には、超低金利、ゼロ金利政策による量的緩和金融政策までを招来してしまった。

 

 どうやら、どこのグローバル長屋も不甲斐なく、肝心のG8G20という管理組合さんも、出来の悪い魔法使い同様、全く、当てにならず、もっぱら、経済成長優先のお題目を唱えながら、財政再建にこだわる処の話ではなさそうである。財政面でも金融面でも政策が窮地に陥り、次の一手が、期待されているが、具体的な効果が現れるような舵取りが、この著作の中でも、残念乍ら、示されていない。スミスの時代に考証された「労働価値説」も、今日では、クルーグマン教授が呼称した泥棒男爵やカジノ金融界の傲慢不遜なディーラー達の不当な高額所得に較べると、非正規雇用採用労働者の労働価値は、一体、如何ほどの違いがあるというのであろうか?今日的な労働価値説とは、このグローバル・サプライ・チェーンの真っ只中で、どういう意味合いを有するのであろうか?どうやら、我々は、知性の退化という現実の中で、形を変えて生き続ける見えざる手を見透かすだけの知性を身につけない限り、いつまでたっても、本質をみることが出来ないであろう。アダム・スミスマルクスが生きていた時代やケインズが提唱した経済学も、今や、余りに、可動変数の増大化と多層化・複雑化が、国境を越えて進行した結果、因果関係の連鎖が、見極められなくなり、一長屋の利益が、他の長屋の足枷にもなり得る今日、どのように、地球規模での長屋の共通利益を、考えたら良いのであろうか?それとも、一国市場主義の自己完結的な保護主義的なブロック経済へと再び、舞い戻らざるを得ないのであろうか?そうした観点から、竹島尖閣や、TPP議論を眺めることは、決して、意味のないことではなさそうである。

 

ケインジアンが前提としていたところの国民国家の政策機能も、今や、機能不全に陥りつつある以上、国民国家の経済運営、そのもの自体が、国民国家の存在を脅かしていると云えなくはない。それは、丁度、EUと個別加盟国との今日的な問題とも、何故か、不思議と重なり合わされる。

 

 著者は、最終章で、個別にリスト・アップされてきた42個に及ぶキーワードを基にして、ジグソー・パズルのピースを選り分け、組み合わせる作業に入ってゆくのである。ヒトの箱、モノの箱、カネの箱、クニの箱、そして、ワクの箱へと、、、、、、、、。ヒト・モノ・カネが、国境を越えることが、クニの自己完結性とその政策の効力を脅かしている以上、ワクを、改めて、考察し直す必要があると、著者は、展望する。そして、更に、その箱毎に、仕切りで区分を入れながら、小箱を並べ替えながら、ネーミングしてゆくことになる。どうやら、その形が、おぼろげながら、全体像が見えてきたようである。それは、要するに、どうやら、ドーナッツ状の(ヒト・モノ・カネ・クニの四つのアメーバー)が、連なる輪のようなもので、その穴が、どうも、(ワク)のブロックのようである。ワクの形は、これらの四つのアメーバー・ブロックの形によって、決定されるようで、逆に、その形が変化すれば、自ずと、ワクの形も可変すると、、、、、、、、、。本来、ワクというモノは、外側にあるから、枠であって、その中の世界の姿を規定するものである。そして、それが、枠の枠たる所以であるはずであるにも関わらず、今日の世界では、どうも、そうではないように思えてならないと著者は云う。このパズルは、動くパズルで、常に、連続的な目まぐるしく形を変えつつ浮遊するアメーバー・ドーナッツのようなものであると、、、、、、。

 

 どうやら、旅の行く末が、見えてきたようである。高度な社会的な分業は、実は、分かち合いそれぞれに得意分野毎に特化して、分割担当することで、効率を上げ、成果を高める支え合い、分かち合うことのようである。寄せ木細工的な生産体系が、グローバル・サプライ・チェーンの本質であるようだ。これまでの古典的な分業を基にした貿易理論や、二国二財モデル、比較優位理論では、今や、時代適合性を欠いていることは、間違いなさそうである。想えば、65年の構造不況も、その後の複合不況という名称も、景気循環を待ちつつ、どこかに、先進国の仲間入りをする上での構造的に通らなければならないひとつの日本と言うクニの枠内で議論されていたのかも知れない。結局の所、所得税が、或いは、法人税が安く、相続税もないクニへ、資産が最も効率的に運用できる場所へ、ヒト・モノ・カネが、いとも簡単に、国境を越えて、どんどん、吸収されていってしまい、富を求めて、国境を越えられない者達だけが、その内側に残されてしまうのか?こうなると、もはや、「国富論」ではなくて、皮肉にも、「国負論」状態になってしまう。著者は、最終的には、金融に如何にしてマトモさを呼び戻したらよいのか、金融の在り方を再現させるのには。動物園でもジャングルでもなく、むしろ、サファリパーク方式の体制が向いているのではないかと方向付け、そこに、ヒトの知恵と良識に、依存せざるを得ないとする。そして、最終的には、ヒトの価値に、労働価値に、舞い戻る。しかしながら、今日、国境を越えてどんどん、低レベルでフラット化してゆき、低位横並びであるとも云う。確かに、アダム・スミスは、「諸国民の富」と言っているのであって、決して、「諸国家の富」とか、「自国民」、「自国」とは言っていないのである。飽くまでも、「諸国民」なのである。「富」とは、国家に帰属するのではなくて、国民に帰属するモノなのである。そのことこそが、本のタイトルに潜む、今日的な課題なのかも知れない。鄧小平が、生きていたら、習金平にどう言うであろうか?複雑な今日的なパズルの隠しピースは、どのようにはめられたら良いのであろうか?「見えざる手」は、権力による「見える手」ではなくて、「差し伸べる手」、やさしさのある、勇気ある手、知恵のある手であると、著者は云うが、、、、、、、、、。そして、今日の「新・重商主義」に対抗すべき基軸は、グローバル市民が、依って立つところの「地域共同体」であると云う。どうも、旅の最期は、何か、いつものように、学者先生に煙に巻かれたような結論であり、何か抽象的なユートピア的手法のような感がなくはない。現状分析には、成る程、ある程度は、役立つものの、今日的な課題を解決する処方箋を、この本の中に、期待することは、やや、難しいことであるかも知れない。まさに、著者が云う如く、我々は、未だ、「動くパズル」の中で、もがき、あがいているだけで、確たる処方箋が、示されているとは、どうやら、云えないのではないかと、思われてならない。余り、具体的な処方箋を期待しすぎると、読み終わった後に、若干、ガッカリするかも知れない。