小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

病床で、再び読む「棺一基」大道寺全句集!

病床で、再び読む「棺一基」大道寺全句集!
子規は、根岸の家で、脊椎カリエスの痛みの中で、発句に努めたが、身体の自由が奪われると言うことと、精神の自由とは、どういう関係性があるのかと、ふと、病床で、寝返りも打てない状態で、考えてみた。大道寺も、又、同様に、多発性骨髄症を患い、肉体的な苦痛とともに、明日をも知れぬ死刑囚という無言の精神的な圧迫の中で、どのようにして、発句したのだろうかと、やはり、病床で、読み返しながら、考えてみた。ベランダの木陰で読むのと、病床で読むのとでは、自ずと、句に対する読み方が、違うような気がした。多少は、身体的な拘束の苦痛が、分かったような気がしてならなくもない。東京拘置所は、建物の中に、監獄が二重に据えられていると言われている。風景も季節の移ろいも、実感出来ないような構造になっていると、報道特集は、報じていたが、、、、、、もし、そうであるならば、句の中の様々な客体は、自分の主体と一体化し、擬人化して、自己の精神をそこに投影するのであろうか?しかし、それは、決して、実際に、目視できる現実の客体ではなく、大道寺の記憶の中にある残像ではなかろうか?或いは、頭の中で、想像した情景やら風景やらの客体なのではないだろうか?そこに、どれ程までの17文字の情感を投影できるのであろうか?もはや、そこには、「季語」と呼ばれるものは、想像を超えた地平に、位置しているとしか思えない。
そうして、改めて、病床で、次の句を読み直してみると、(私的に、勝手に選んでみたが、、、、)ベランダの木陰で、読むのとは、異なった感慨が、生まれてくるものがあるようである。いつもとは違った風景が、そこには、又、見えてくる。
(又、段々、多くなってきてしまった。)是非、皆さんには、実際の本で、読んで貰いたいものである。

実存を賭して手を擦る冬の蝿
一身に木の芽の声を聞きをりぬ
うつそみの置きどころなき花吹雪
紛れざる木犀の香と哀しみと
海鳥の一声高く海氷る
鈍(にび)色(いろ)の空置き去りに帰る雁
紫陽花の色調(ととの)はず散りにけり
百合の香や記憶の襞(ひだ)のそそめけり
暗闇の陰翳刻む初蛍