小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

イタリア工業デザイナーの死に思う

イタリア工業デザイナーの死に思う
新聞に、イタリア人の著名なセルジオ・ピニンファリーナ氏の死亡記事が、載っていた。別に、自分は、カーキチでもなければ、F1カーレースに詳しいわけでもない。全くの門外漢であるが、あのフェラーリやマセラティやアルファ・ロメオのカー・デザインを手掛けたという一点に、興味を持った。同氏の元で、研鑽したカー・デザイナーの奥山清行氏によれば、「絵ではなくて、言葉で、デザインしろ」と言われたそうである。イタリアという国は、未だ、脚を踏み入れたことがないが、どうして、デザインとか、著名なブランドを、輩出するのであろうか?国民性とか、人間性に、どこか、そんなヒントが隠されているのであろうか?ドイツのようなマイスター・システムからは、優れたデザイナーが、とりわけ、工業デザイナーが、生まれても良さそうであるが、、、、、、。振り返って、我が国を顧みれば、服飾デザイナーは、数多く、輩出されたが、世界に冠たる工業製品でも、メイド・イン・ジャパンのブランドは、有名でも、それらの数多くの製品で、何人の工業デザイナーの名前が、浮かぶであろうか?芸術性は、教育では、創出できない分野で、やはり、個人の才能と家庭環境に、頼るしか手立てはないのであろうか?フォルムの美しさとは、何か、工業デザインとは、何かを、改めて、考えさせられるモノがある。ブランド作りも良いが、その前に、デザイナーが、自然に輩出されるような社会の素地というか、土壌が望まれるし、それは、如何にしたら、創られるのであろうか、、、、、、。