小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

義理の兄の葬儀に想う:

義理の兄の葬儀に想う:

 

色々と闘病中の話を、義理の姉やら、親族から、聴くと、「余命を宣告される」ということは大変なことであると改めて思うし、介護師達に、自分の状況を説明させるような医師がいるということも、驚かされた。同時に、義理の兄の心情を察すると、それを平然と説明した本人の強さにも、又、驚く。夫婦揃って、癌に罹り、一時期は、義理の姉の方が、重篤で、手術を決断し、除去に成功して、その後は、快方に向かっていったのに対して、義理の兄の方は、逆に、その後、症状が悪化していった節がみられる。「残された時間というものに限りがある」と知ったときには、不安と恐怖が出てきて、神経質になり、夜もよく寝られないことが続いて、おまけに、食事も十分取れずに、徐々に、「生きるというエネルギー」が、失われていったようである。それは、頬が痩けたり、脚が細くなっていったことにも、表れているようである。親族だけのひっそりとした葬儀であるが、参列者の中には、最低でも4人の癌闘病患者がいて、お互いの会話にも、何か、触れてはいけない、ぎこちないものがあった。「どのように生きたら良いか?」は、考えがちであっても、「どのように、死期を迎えたら良いか?」は、どんなに、父母や祖父母、親族、友人の死を観たとしても、なかなか、普段は、思いもよらないものである。日頃から、ある程度の年齢になったら、それを思い描くことは、決して、無駄ではなさそうで、生前から、色々な人と、家族を含めて、話し合っておくことは、大切なことであるのかも知れない。棺の蓋を閉じる前に、義理の姉が、額を撫でて、「有り難う」と言った言葉が、印象的であった。「看病を通じて、濃密な夫婦の会話が出来た」と、話していたのは、決して、大げさなことではなかったのであろうと思う。近しい親族であれ、友人・取引先の知り合いの人であれ、葬式の度に、色々なことを考えさせられるものであることに、変わりはない。これからは、妻や家族との何気ない会話も、もっと、大切にしなければいけないとも思うことしきりであった。そんなことを思いつつも、ついつい、又しても、人を知らずに、傷つけるような言葉を、平然と吐いてしまうのが、凡人の凡人たる所以かも知れないが、、、、、、、、。