小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬と一緒に、様々な分野で社会戯評する。

「未必の故意」と「不作為」を考える

未必の故意」と「不作為」を考える 最近、やたらと、ひき逃げ、酒気帯び運転、危険致死運転や引きずり運転等による事故が多いが、それらの裁判で、果たして、そこに、「未必の故意による殺意」があったのか、どうかという議論が、裁判員裁判でも、問題になっている。「未必の故意」とは、犯罪行為によって結果が発生するかもしれないと認識しながらも、「起きてもやむを得ない」との気持で行動する心理であると謂われている。「確定的故意」、結果の発生を確定的なモノとして積極的に考えて行動する心理とは、対局に、区別される。殺人罪には、殺意の立証が必要であるものの、未必の故意があれば、成立すると、、、、、、。法律的な議論の行方は、定かではないが、命を失った被害者や、当事者の家族にとっては、巻き込みや引きづりについて、「気付かなかった」とか、「認識はなかった」とか、更には、「殺す意思は毛頭なかった」などと、主張されると、その心心理的内部の作意を、一体、どのように、客観的に、証拠立てて、立証するのであろうか?それでも、飲酒のせいにしたり、意識がなかった等と主張されたら、被告の意図を確かに、推量させられるだけのものが、果たして、揃えられるのであろうか?翻って鑑みれば、最近、頻繁に耳にする「不作為」という言葉も、犯罪ではないかも知れないが、著しく、その結果は、犯罪に近いモノがあるような気がしてならない。「たぶん、そうなるであろう」ことを予測し得ても、「そうならないようにする」と言うこともせずに、そのまま、ほったらかにしておいて、責任を回避するような待機主義・回避主義者達である。様々ないじめの問題や、それに対する教育委員会の対応、子供への虐待等、考えてみれば、どれもこれも、この言葉を改めて、自分のこととして、考え直す必要があろうかとも思われるが、、、、、。