小諸 布引便り Luckyの日記

信州の大自然に囲まれて、老犬介護が終わり、再び、様々な分野で社会戯評する。

神林長平著、SF長編「ぼくらは都市を愛していた」

神林長平著、SF長編「ぼくらは都市を愛していた」

17世紀、フランスの思想家である「バスカル」は、「人間は、水上に漂うひ弱な葦に過ぎないが、それは、“考える”葦である。」と、、、、、、。或いは、デカルトの「我、思う、故に、我在り」、一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、しかしながら、この長編SF小説を読んでいると、何が、現実で、何が、仮想的な現実で、自分とは、何物であり、その意識とは、どういうものであり、この世界は、本当に、現実世界で、自分は、その中で、実存しているのかさえ、定かではないそんな錯覚に陥ってしまいそうである。意識とは一体、何なのか?読み進むにつれて、次々と、考えさせられることになる。

 

綾田(あいでん)ミウ情報中尉の戦闘日誌の最後に書かれていた言葉、「書くという行為は、祈りだ。私は今初めてそれを知る。」孤児院で一緒に育った双子の弟は、元公立高校教師の援助交際で、辞職し、公安課に入ったカイムである。それが、漢字での「皆無」であることが、小説の最期に、判読される。

 

体間通信機能を有するという人工神経網が、体内に、作られ、通信情報を無意識のうちに受信していて、意識すればそれが、聞こえてくるような現象、意識を読むと言っても、直接他人の心を覗き込むのではなくて、他人の言葉を、盗み読むのである。携帯の通信機に書き込まれたテキスト情報のようなものである。そういう体間通信装置を、体内に、移動カプセルのように、取り込まれる。

 

携帯を使って誰もが今何をしているかという「さえずり」(つぶやき?)すらもリアルタイムに、テキストデータとして、これを使えば、感知できてしまうと、「情報震」というこの世界の全ての論理装置の意味を失わせる情報震現象が、突然起きる。本震とそれに次ぐ規模の大きな余震という二波の「情報震」で、地球上の全ての光電子デジタル聴きの息の根を止められ、再起不能な状態までに破壊されてしまう。但し、奇怪な点は、影響を受けるのが、デジタルデータのみであるという点であるが、微生物を含めて、動植物に何らの影響を与えるモノではない。

 

この現象を引き起こした根本的な原因とは、一体、何なのか?

世界中のデジタルデータをほぼ同時に一斉に、揺らしている力の正体とは?そもそも、それは、何を揺らしているのか?全く分からない。原因もメカニズムも媒体も、それらの問い事態が無意味なものであるし、対処方法も、明らかではない。

果たして、敵性知的主体が存在して、何らかの意図を持って活動しているという可能性があるのか?

観測機器が破壊されても、人体という感覚器でもって、任務を継続することが可能なのか?

ただ、生きていさえすれば良いという厳しい任務でもある。

現代は、「知らない」と言うことは、即、死に繋がる、死ぬという意味になる。「情報無くして命無し」、逆説的に謂えば、情報が命ならば、盗聴というのは、命の横取りであるのか?

人間にとっての現実とは、「言語情報」であり、「言葉そのもの」である。

自分の身体がやがて、透明になり、その質量を失った空間を無数の青白く細いレーザー光線が、貫いていく。目を開けたらそこには誰もいない。空の箱に存在するのは携帯の端末によって記号化された「人間」という観念の発信器が飛ばす「言の葉」という「情報の断片」のみである。

情報震による被害は、地勢と相関する濃淡があることが、分かった。無人に近いほど、耐震効果があるらしい。原因の分からないコンピューター上やネット上のエラー状況は、情報震によるものと疑われる。デジタル機器=あらゆるデータを量子化して処理し保存するという技術の発明とそのネットワーク化という科学技術の進歩、いずれ手書きの文書以外は、判読不明の文字化けしたデータの羅列以外になってしまうであろう。

人為的なサイバー攻撃であるという宣戦布告無き戦争の開始なのか?、

人類自滅の元凶は、ヒトという生物が持つ「疑心暗鬼」という鬼であろう。「情報震」は、そうした鬼に、力を与え、活性化させたのである。猜疑心という自己の観念によって、自滅の危機に追い込まれた。

自分の意識は無味無臭で、透明であるが、実は、体臭と同様に、かなり、臭いものではないか、体間通信機能は、その透明性をどのようにすれば見ることが出来るのかという問題を解決する装置としても使えるかも知れない。

2020年、都市はその全機能を停止することになった。通信システムの全てが沈黙した。誰も語らない、都市は沈黙している。再起動や復旧は、成功した例をみない。もはや、都市ではない、死んでしまったのである。壮大な“記憶回路の喪失”である。

戦闘日誌であるからには、事実記録に徹するべきであり、それを阻害する思いは、雑念、言い換えれば、“ノイズ”で、それを記録、記載し始めている。

情報震の主体とは、人類の対策を無効化するという手段でもって、我々人類に応答してきているのであって、そのようなコミュニケーション手段もあるだろうと言うこと、人類の情報震に対する対策を彼らに対する人類側からのメッセージであると受取っている可能性があるということ。

それも、意識そのものを有している相手とは、或いは、人類に悪意を持っている相手だとは、断言出来ない。人類の高度情報化への進化を脅威と感じる何か、そんなそうした主体が存在するのだろうか?デジタル信号を嫌うウィルスのようなものとかが、いるのではないか?自己免疫疾患のような、アレルギーのようなものが、、、、、、。人類は、自らの高度な情報化環境に対して、無意識・無自覚の内に、アレルギー反応を起こし、それが、情報震を引き起こしたのではないか?

記憶の方が正常で、記載された頁がない。記憶の方が現実よりも正しいのだ。

情報震は、CD面に刻まれたデータ、その微少なビットの配列すら変化させる物理的な作用力を発揮しているから、手書きデータも消去することもありうるだろう。その作用力は、ヒトの時間的感覚や記憶や意識といったものにも、影響を及ぼしているのかも知れない。人の脳内情報にも、影響が及んできているのか?

人間の記憶というものは、書かれている現実によって、容易に、“書き換えられてしまう”ようである。今、書かれていることだけが、現実に起きていることである。書いたことを消してしまえば、現実には、それはなかったことになる。何とも、不可解なことである。

人は、他人と情報を交換し続けなければ、不安になり、人間関係こそが、人を動かす原動力になっている。他人と関係することで、得られる情報を通じて、本当は、生きているのか?まるで、SF小説であるにも関わらず、今日的な問題、現実の意識と仮想現実の世界、その間で、生活する生身の人間の意識、デジタルとアナログ世界での狭間の問題、等、多いに、考えさせられることになる。

8年間の戦闘日誌記録が消失してしまった。「どこにも、記述がないという現実、客観的な事実、

書くという行為は、祈りだ。私は今初めてそれを知る。」という現実、情報震があった日付だけが、残っている。情報震は、人間の認知情報機能に直接干渉するのだろうか?

体間通信という得体の知れない人口神経網は、“偽の”記憶や知覚を送り込んでいる可能性がある、そうすれば、人口神経網は、他人に自分の意識を割り込ませて、その他人に暗殺などの犯行を実行させることも可能になる。自己のアイデンティティーを分裂させ、分身をも作り出すことも可能になる。

記憶すらも、人工的に作り出されることになる。同じ虚構体験が作り出される。

単独ではひ弱な毛のない猿にすぎないヒトは、様々なモノを作り出して劣った能力を補ってきたが、その最高傑作が、「都市」であると。それは、田舎の延長線である都会というものでは“ない”。総合的な人工的環境システムを実現している巨大機械(メガマシン)である。それは又、ヒトの常識(=独りではいきられない)に対抗できる力を個人に与えた。そして、私達は、「都市」を愛した。

都市という他者の脳内世界、他者の意識内に、紛れている。決して仮想世界ではない。この人々の一人一人は、過去の彼らの意識から、再構築されたものであるが、ここでは、全てアクティブに、ダイナミックに活動している。

体間通信や疑似テレパシー能力といったものを使えば、人が手にしている携帯の内部情報をリアルタイムで、直接読み取ることが可能になる。通信情報の全てをアクセスしているクラウド内の情報を読み取り、感じ取ることが出来る。ソーシャルメディア内での個人の書き込みを継続的に追跡し、その持ち主が、どういう信条や思想の持ち主なのか、どんな社会階層でいき人生の価値観や生き方、食べ物や異性の好みまでも、人となりや本音が分かる。

自分自身のことを、自分は自分であると考えている。そういう自分というのは、「脳内に生じる仮想的な存在」にすぎない。この町の人々は、都市という意識に投影された自己、自分を皆持ち、自分は自分であると意識して生きている。都市がすべての情報機器やネットから収集し保存していたデータから再構築した、そうした各人の意識は、そのままではデータにすぎなくて、それは、変化しない静的なモノですが、それを駆動しアクティブにすることで、本物と変わらない人生を各人が得ている。しかし、その現実こそが、虚構であると。

化身の自分のほうが、主役になるとき、それが、都市との意識統合の完成である。

情報震の実際の被害とは、単にデジタル機器を媒介にした通信障害、「人と人とのコミュニケーション障害」なのである。人類は、疑心暗鬼に陥り、大量破壊兵器を無差別に使用して、人類を絶滅危機除隊に追い込んだ。人類の集合的な意識が、何らかの原因で、統合失調症状態に陥った。

人類は、今や、私は私であると言う意識を体外に投影し、投射する技術を作り出した。デジタルネットワークというまさしく、蜘蛛の巣のようなスクリーンへと、脳内の自己の化身を投影する技術を全世界の人間達がそれに向けて自己の複製を投影し始めるようになった。その集合体は、まさしく、人類の集合的な意識と行って良いモノだろう。コミュニケーション不全による都市の崩壊危機である。

 

何が現実で、何が仮想現実だったかと問うことには意味が無いと思われる。そのような問いかけがナンセンスになる。「意味が無意味になる」。これこそが、情報震の被害というか、効果であろうと、各個人が意識している現実だけが現実である。というのが今の状況で、本来存在するはずの共通の現実という基盤を情報震が揺さぶって、日々を入れてしまったために、こうなってしまったのだろうか。

人間同士のコミュニケーション手段に、情報震がひびを入れてしまったのかも知れない。その原因とは、量子効果を利用したデジタル技術が発展したことが、現実崩壊、人間の共通意識、今や時間すら共通していないことがわかったが、その基盤を揺るがすことになったのかも知れない。量子論は、本来、ミクロの世界だが、人間という大きなモノが、多世界に分裂するなどは考えられないが、情報震は、それをやってしまったのかも知れない。人間の意識野というのは、もしかしたら、自分の脳内ではなく、例えば、地球といった場に投影されているのかも知れなくて、その地球場をゆらすのが情報震なのかも知れないと。

 

意識がそのように、体外に、或いは、意識の複製が体外にも投影されているものならば、幽霊の存在や幽体離脱や、輪廻転生もオカルト現象も説明出来るかもしれない。

真の世界とは、人間の感覚や理解を超えて拡がっていて、因果関係も時空も物質もエネルギーもない、或いは、それらが、みんなごちゃ混ぜに存在する混沌の場で、人間はそのごく一部を意識し、意識することで、小さな現実を生み出し、その仮想的な世界、真の世界とはかけ離れた遠いところで生きていると、

世界というのは、「皆無」、カイムで、でも何もない皆無というものが在る。これが、私達の感じている現実である。トウキョウというモノは本来ない。街もなかった。今それを生み出しているのは、一人一人の存在で有り、これを自覚し、知ることこそ、人生を生きていることの意味なのであるから、、、、。

この長編SF小説を読んでから、3.11の未曾有の大震災に対する見方も、都市と情報ネットワークという観点から、考え直して見る必要性があるかも知らないし、とかという言葉に代表されて提起された人と人との相互コミュニケーションの在り方、破壊される前の世界が、本当に、現実で、破壊された後の世界が、果たして、現実なのか、単なる「大地震」というものでは、語りきれない、或いは、SF小説という範疇だけでは、語れないモノが、あるようである。終末論なのか、それとも、創世記なのか、それは、一人一人の読者の意識の中に、問われているようである。未だ、数十万人という人々が、故郷に、帰還できない現実が、そこにあるが、、、、、、、、。